夢うつつ
ドアベルが軽やかな音を立てて来客を知らせた。薄明るい室内を見渡すと、ほかに客はいないようだった。まっすぐに視線を戻すと、グラスを拭っていたバーテンダーと目が合う。彼はわたしに微笑みかけると、すっとその後ろへと目を走らせた。つまり、真っ暗な闇が広がる外へと。
「どうですか、外は」
「もう全然だめよ」
目線で勧めてくれたカウンター席に座る。
「ひどい霧なの、これっぽっちもまわりが見えないぐらい。やっているお店があってよかったわ、家へ帰るのは諦めたほうがいいんじゃないかと考えていたところなの」
「それは災難でしたね」
「ほんとうに」
華奢な小皿にのったチーズをひと欠片と、オリジナルのカクテルだというオレンジ色のアルコールをひとくち胃に入れると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
「こんな霧じゃ、看板もクローズにしたくなるんじゃないかしら?」
「しかし、開けていたお陰で、こんな美人なお客様をお迎えすることができました」
仰々しいバーテンダーの台詞に、思わずくすくす笑う。
「ねえ本当に、わたし朝まで飲んでいようかと思うのだけれど、大丈夫? あなたの、たとえば、心穏やかな睡眠とかに、支障をきたさないかしら?」
「もちろん大丈夫ですよ」
「よかった、ねえ、かかっているのはレコード? それともラジオ?」
「レコードですね」
「もうちょっと音を大きくしてもらってもいいかしら」
「かしこまりました」
そう言ってバーテンダーが奥に下がる。少し大きくなった音楽に、小さく鼻歌を口ずさんでみた。どこか懐かしいメロディを感じたのは間違いではなかったようだ。
「これ、あれでしょう、十年ぐらい前にはやった。歌もついていないしピアノになっているけれど」
「ああ、そうですね。歌謡曲をカバーしたアルバムなんです。よくわかりましたね」
「当たり前よ。わたし、毎日この曲ばっかり聞いていたんだもの」
あの夏に君と出会い、初めてわたしの世界が動き始めた。二人ならどこまでも行ける。さあ、旅に出よう。遠い遠い海の向こうまで。
そういう曲だ。今でもはっきりと思い出せる。
「きみのても、めも、かみも、なついろをして、らら・・・」
バーテンダーは囁くように歌うわたしを一瞥して、何も触れずにシェイカーに向き直った。それはわたしも望んでいた態度だった。わたしの心は、小さな古びたバーから飛び立ち、十三歳の夏に戻ろうとしていた。
わたしは毎日ラジカセにかじりつくようにしてあの曲を聴いていた。自分にも特別な男の子との出会いがあって、彼が新しい世界へ連れて行ってくれるんじゃないかって。そんな女の子はあのとき数万人いて、でもわたしは実際にそんな男の子と出会えた、幸運な女の子だった。
わたしたちは夏のビーチで出会った。彼は茶色の髪をきらめかせて、わたしの手を引っ張ってどこへでも連れて行ってくれた。そうして、遠い遠い南の地で、わたしたちは小さなシングルベッドで抱き合うようにして眠ったのだ。
それから、
それから?
それから何が起こったんだろう。何も思い出せない。あの歌詞も、彼の笑顔も、はっきりと覚えているのに、それからの物語を何一つ語ることができない。まるで時間が、ぷっつりと途切れてしまったように。
そもそも、わたしはどうしてこのお店でお酒を飲んでいるんだろう? 霧がひどかったからだ。じゃあどうして、こんな霧がひどい街を歩いていたんだろう? 家に帰るために? そう、それは確か。じゃあどこからやって来たんだろう?
「おかわりはいかがですか」
おそるおそる顔をあげると、彼がいた。茶色の髪を電球で照らして、微笑む彼が。
「わたし、……夢を、見ていたのかしら」
「さあ」
「それとも、いま見ているこれが、夢なのかしら」
「さあ」
彼は微笑むばかりだ。
「……お代わり、そうね、もう一杯いただこうかしら」
「霧が晴れたら、お帰りになられるといいですよ」
「そうね、もう潮時ね」
冒険の終わりがこんなだなんて最悪だ。投げやりな気持ちになって、甘ったるいカクテルを一息で飲み干した。
「マスター、おかわり」
「かしこまりました」
グラスを掴む彼の骨ばった指に見惚れる。このまま時が止まればいいのにと願って、それはあの夏には決して思わなかったことだった。わたしはもう十分に大人になっていた。
※お題は「濃い霧」「夢」「ボーイミーツガール」でした。