メリー・クリスマスは遠く

 トナカイとサンタの黒い、がらんどうの瞳が僕を見つめている。オマエ、ソノママデ本当ニイイト思ッテル? 適当にアフレコしてみて、いったい彼らは何のことを言っているんだろうと自問自答した。

「ねえ、ちょっと」

 先輩が僕の腕をつついた。

「なにぼーっとしてるの? もう会計しちゃうって言ってたよ。食べたいものあるなら籠に入れなよ」

「あー、うん……」

 視線の先を覗き込んだ彼女が、けらけら笑った。

「え、なに? ケーキ? クリスマス仕様じゃん、えー、なにこれ買いたいの? かわいー」

「あー。いいんスよ」

「いいの? 買えばいいじゃん。クリスマスしか食べられないよ?」

「ホールケーキ買ったらしいじゃないスか」

「あーそっか。確かに。被りは困るなあ」

 後ろから先輩の名前を呼ぶ声が聞こえて、彼女は振り返る。お酒飲みますよね、何がいいですか、と瓶が数本掲げられていた。彼らのもとへ、彼女は軽い足取りで向かっていく。僕はその後ろ姿をぼんやりと見つめた。

 真崎と二人でコンビニのケーキを食べたクリスマスは、遥か遠くにあった。

 

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 同じ学類で、宿舎も同じとなれば、仲良くなるしかなかった。真崎は真崎健吾という。マサキという響きが名前みたいでみんな苗字で呼んでいた。GPAはそこそこ、サークルはバスケでバリバリの体育会系。中学生男子みたいに下ネタが大好きなのが欠点だけど、女子の前で発しない分には問題はない。

 監獄みたいな宿舎に僕と真崎はうんざりして、夏には脱出計画を立て始めた。広いアパートを借りて、二人でルームシェアするという手を先輩から教わった。共同生活に慣れた人なら、家事を簡単に終わらせられるし、なにより家賃が安い。

 僕たちの大学では、クリスマスと期末試験がちょうど被る。テスト期間に入る前になんとか引っ越しを終わらせられて、僕たちはほっとしていた。しかしすぐにテスト勉強に追われて、気が付いたらクリスマスイブになっていた。

「クソッ、コイツ彼女とデートしてやがる!」

「嘘だろ? 明日は線形のテストなのに?」

「チクショー、俺だってクリスマスしてえよ!」

 地団駄を踏んだ真崎はシャープペンシルを放り投げた。道連れに僕まで近所のコンビニに引きずられ、クリスマス使用のミニケーキを買わされることになった。なんでこんな小さいケーキが三百円もするんだと文句ばかり言いながら、僕たちはケーキをむさぼり食った。小さなケーキは一瞬で口の中に消えていった。

 そのクリスマスには、何の含意もなかった。僕たちはただ、自分を慰めるためだけにケーキを食べた。それだけだ。まだその当時、僕と真崎が体を重ねることはなかったから。

 

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 またサンタだ。

 クリスマス用のケーキだからサンタの飾りがついているのは当たり前なのかもしれない。ケーキの上に佇んでいる赤い服のおじいさんを、取り上げてどこかに隠してしまいたくなる。サークルのメンバーから白い目で見られるとわかっていても。

「またサンタみてる。好きなの?」

「好き、ってわけじゃないけど……」

「じゃあそれ取っちゃいなよ。いいよー、誰も文句言う人いないって」

「エッ、でも別に飾りもらっても……」

 彼女は目を丸くして僕を見た。

「これ飾りじゃないよ。食べられるんだって」

「嘘でしょう」

「嘘じゃないよ。マジパンって言って。エッ、ずっと捨ててきたの? 勿体ない!」

 本当に食べられるから。試してみてね。彼女はそう言って僕の紙皿にサンタを置いた。近寄ったせいで彼女の香水がふわりと香る。おじいさんは、さっきよりずっと近い距離から、僕を見上げてくる。皿がずっしりと重くなったように思えた。

 

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「彼女ができたんだ」

 真崎がそう言ったのは、夏のことだった。

「えーと、だから、もうセックスはできない」

 そのとき僕の中にあったのは、そうか僕たちは恋人じゃなかったのか、という微かな驚きだった。

 年を越したあたりから、「オナニーよりはマシ」と称して、僕たちは体を重ねるようになった。それは寒さに凍えるからだを寄せ合って温めるのに似ていたが、春になってからも続いていた。真崎にそう言われるまで。

 なるほど確かに、告白もしていない。二人で出かけたのも男同士ならよくあることだ。これで付き合っていたなんてどうして言えるだろう。

「ヤ、黙ってたのはゴメンって。でも俺もこんなに早く話が進むと思ってなかったんだよな」

「あ、いや、別に、怒ってたわけじゃなくて」

 この感情は何て言うんだろう。自分でもわかっていないものを他人に説明することはできない。

 代わりに目下の事案を伝えた。

「アパート、出たほうがいいんだろうなって」

「え、別にいいだろ」

「いや、普通に嫌だろ。セックスしてた相手とまだ同居してるなんてさ。後々バレたときに面倒だぞ」

「それもそうか……」

「何だったらさ、僕の部屋に住めばいいじゃん、彼女」

「あー……」

 真崎は腕を組んで真剣に考えだした。じゃあ僕物件探してみるわ、と声をかけて部屋に戻りかけたとき、あ、と真崎が声をあげて僕を呼び止めた。

「なに?」

「もうできないけどさ、お前とのセックス、マジで気持ちよかったから。これホント」

 僕は笑ってしまう。

「え、何だよそれ。ありがとうって言えばいいわけ?」

「おう、言え。感謝ならいくら貰っても足りん」

「言わねーよ。まぁ僕も気持ちよかったわ。もうできないのが惜しいぐらい」

 僕はようやくいま抱いている感情が何なのかわかった。

 これは喪失感だ。

 

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 家が近いから、という理由で先輩は僕が送ることになった。自転車を押しながら並んで歩く。かなり酔っぱらっている先輩の足取りは怪しいけれど、深夜帯のこの町の交通量は0に近く、最悪の事態には至らなさそうだ。

「ねえねえ、クリスマスって予定あるの?」

 ないですって答えたらどうなるんだろう。その結果を、なんとなく僕は察していたけれど、踏み込むつもりはなかった。

「テスト勉強っスね」

「あ…そっか。そうなんだ」

 酔っぱらった先輩は落ち込んだ様子を隠すそぶりもない。

「……これは、あたし、振られちゃったかな?」

 自嘲の中に確かに涙声が混じっていて、はっと驚いた。先輩が僕に好意を抱いていることは気づいていた。外堀を埋めるようにアプローチされては、気づかずにいられない。そのこと自体は、嫌ではなかったけれど、この関係を進展させるつもりもなかった。誤魔化していたのは罪だっただろうか。

「好きな人が、いるんですよ」

 言い訳するように口に出した。

「ずっと、これが好きって感情なのかわからなかったんです。嫉妬もしなかったし、側にいたいわけでもないし。でも最近、たびたびその人とのことを思い出して、それだけで幸せな気持ちになって。だからきっとこれは、好きなのかなって」

「あたしのこと好きだったら、他に好きな人がいてもいいよ」

「いや、僕、あの人の思い出だけで、充分だから。これ以上は要らないんです」

 とてもひどいことを言っているという自覚はあった。先輩も、ひどいよ、と言った。ひどいよ、すごく自分勝手だよ、と繰り返した。

「すみません」

「……ううん。まあ、仕方ないかな。そんな君だから、きっと好きになったんだと思う」

 先輩は押していた自転車に飛び乗った。まだ酔っているのにと慌てる僕を尻目に、じゃああたしの家はこっちだから、と颯爽と去っていく。後には僕だけがぽつんと取り残された。

 取り残されてしまった。

 でもそれは僕が選んだ道だった。そういう道を僕はこれからも歩んでいくのだ。寂しいと思う日まで、それまでしばらく、独りふわふわと漂い続ける。それが僕にとっての幸せだった。

 

※この小説は筑波のクリエイター Advent Calendar 2017 - Adventarのために書き下ろしました。