「生まれてきてよかったって思ったことある?」
さきちゃんは窓から外を見たまま、そう尋ねた。囁くような、呟くような声。鈍行列車のガタゴトという走行音に消されない最低限の音量だった。
「……あるよ」
私は正直に答える。すこし驚いたように、さきちゃんは私を見た。
「いつ?」
「好きな人に、名前を呼ばれたとき」
芦本、ジュース全員分買ってきてくれる? 金は出すからさ。他愛もない事務的な会話だったけれど、彼が私の名前を覚えていてくれたという事実に舞い上がった。彼は財布から二千円札を取り出して私に渡してくれた。珍しいですね、二千円札なんて。私はそう言ったけれど、彼は首をかしげて、ああ、うーん、確かに? と疑問形で返答した。コンビニのレジで、私は手持ちの千円札で会計を行い、貰った二千円札は財布の奥に大切にしまい込んだ。
そういった思い出を一通り話すと、さきちゃんは微笑んでいいじゃん、と言ってくれた。
「いいじゃん。すごくいい思い出だよ。死ぬの、やめたら?」
「そうだね……」
彼女の言葉が冗談だとわかっているから、私も曖昧に返す。
いや、本当は、どこからが冗談でどこからが本気なのか、もうわかっていない。死にたい話も、心中の話も。終電もなくなった駅前で、ひとり佇んでいた彼女を見つけたときから、夢を見ているような気もする。
「好きな人がいるなら、死ぬなんてよしたほうがいいよ」
「もう、好きじゃないの」
「好きじゃないのに、まだ二千円札を持ってるの?」
私は驚いてさきちゃんを見つめた。
「わたし、まだ財布にあるって言った?」
「さあ……言わなかった?」
言わなかったように思う。未練がましく覚えている思い出の品を持っているというのは、おかしな話ではないから、見当をつけたのだろう。そう自分を納得させたけれど、意味ありげに微笑むさきちゃんは、私の記憶を覗いたようにも思えてぞっとしない。
車掌の放送がかかった。切符の駅名を確認して、さきちゃんと頷く。立ち上がると、車内には私たち以外には誰もいないことがわかった。
「ずいぶん遠くまで来ちゃったね」
そう囁きあって、電車を降りる。駅を出た瞬間、潮の匂いがした。
さきちゃんが、アイスクリームを食べたい、と言い出した。海を思い出したら食べたくなってきたのだと。そう言われると、私も旅行気分になって食べたくなってきた。可能ならば牛乳たっぷりのソフトクリームがいい。しかし田舎の駅らしく、周りにはケーキショップどころか店自体が少ない。散々歩き回ってカフェを見つけ、いざ入ろうとしてようやく、手持ちの金はここまで来るのに使い切ったことを思い出した。
「無理だよ、さきちゃん」
「どうして?」
「だって、わたしのお金、さっきの切符代で最後だったんだもん。さきちゃんだってそうでしょ?」
さきちゃんは微笑んで首をふる。
「まだあるでしょう?」
あ。と私は呟いた。にせんえん。
さきちゃんがドアを開ける。カランコロン、とベルが軽やかな音を立てた。
「アイスクリームって食べられますか?」
さきちゃんの問いに、店員が申し訳なさそうな顔をつくる。
「すみません、夏場だったらご用意があるんですが。ああ、でも」
「でも?」
店員の勧めに従って、私たちはメロンフロートを頼んだ。予想以上のサイズがあったそれは、大きさ通りの値段がする。このお金を支払ってしまったらもう何も残らないだろう。それでも後悔はなかった。
メロンソーダに浮いた白いアイスを、さきちゃんは宝物のように掬い取る。そんなに大事にしなくても、きっとすぐに溶けていってしまうのに。
それでも、私たちはこれが最後の晩餐になることを知っていた。
「わたし、たぶん、二千円が使える女になりたかったの。こういう、どうでもいい飲み物とかお菓子に」
さきちゃんがくすりと笑う。
「早く食べなよ。美味しいよ」
「うん」
頷いて、アイスを口に運ぶ。思ったよりも安っぽい味が広がった。これから海に飛び込むなんて嘘みたいな昼さがりだった。