とおくとおくへ

「生まれてきてよかったって思ったことある?」

 さきちゃんは窓から外を見たまま、そう尋ねた。囁くような、呟くような声。鈍行列車のガタゴトという走行音に消されない最低限の音量だった。

「……あるよ」

 私は正直に答える。すこし驚いたように、さきちゃんは私を見た。

「いつ?」

「好きな人に、名前を呼ばれたとき」

 芦本、ジュース全員分買ってきてくれる? 金は出すからさ。他愛もない事務的な会話だったけれど、彼が私の名前を覚えていてくれたという事実に舞い上がった。彼は財布から二千円札を取り出して私に渡してくれた。珍しいですね、二千円札なんて。私はそう言ったけれど、彼は首をかしげて、ああ、うーん、確かに? と疑問形で返答した。コンビニのレジで、私は手持ちの千円札で会計を行い、貰った二千円札は財布の奥に大切にしまい込んだ。

 そういった思い出を一通り話すと、さきちゃんは微笑んでいいじゃん、と言ってくれた。

「いいじゃん。すごくいい思い出だよ。死ぬの、やめたら?」

「そうだね……」

 彼女の言葉が冗談だとわかっているから、私も曖昧に返す。

 いや、本当は、どこからが冗談でどこからが本気なのか、もうわかっていない。死にたい話も、心中の話も。終電もなくなった駅前で、ひとり佇んでいた彼女を見つけたときから、夢を見ているような気もする。

「好きな人がいるなら、死ぬなんてよしたほうがいいよ」

「もう、好きじゃないの」

「好きじゃないのに、まだ二千円札を持ってるの?」

 私は驚いてさきちゃんを見つめた。

「わたし、まだ財布にあるって言った?」

「さあ……言わなかった?」

 言わなかったように思う。未練がましく覚えている思い出の品を持っているというのは、おかしな話ではないから、見当をつけたのだろう。そう自分を納得させたけれど、意味ありげに微笑むさきちゃんは、私の記憶を覗いたようにも思えてぞっとしない。

 車掌の放送がかかった。切符の駅名を確認して、さきちゃんと頷く。立ち上がると、車内には私たち以外には誰もいないことがわかった。

「ずいぶん遠くまで来ちゃったね」

 そう囁きあって、電車を降りる。駅を出た瞬間、潮の匂いがした。

 さきちゃんが、アイスクリームを食べたい、と言い出した。海を思い出したら食べたくなってきたのだと。そう言われると、私も旅行気分になって食べたくなってきた。可能ならば牛乳たっぷりのソフトクリームがいい。しかし田舎の駅らしく、周りにはケーキショップどころか店自体が少ない。散々歩き回ってカフェを見つけ、いざ入ろうとしてようやく、手持ちの金はここまで来るのに使い切ったことを思い出した。

「無理だよ、さきちゃん」

「どうして?」

「だって、わたしのお金、さっきの切符代で最後だったんだもん。さきちゃんだってそうでしょ?」

 さきちゃんは微笑んで首をふる。

「まだあるでしょう?」

 あ。と私は呟いた。にせんえん。

 さきちゃんがドアを開ける。カランコロン、とベルが軽やかな音を立てた。

「アイスクリームって食べられますか?」

 さきちゃんの問いに、店員が申し訳なさそうな顔をつくる。

「すみません、夏場だったらご用意があるんですが。ああ、でも」

「でも?」

 店員の勧めに従って、私たちはメロンフロートを頼んだ。予想以上のサイズがあったそれは、大きさ通りの値段がする。このお金を支払ってしまったらもう何も残らないだろう。それでも後悔はなかった。

 メロンソーダに浮いた白いアイスを、さきちゃんは宝物のように掬い取る。そんなに大事にしなくても、きっとすぐに溶けていってしまうのに。

 それでも、私たちはこれが最後の晩餐になることを知っていた。

「わたし、たぶん、二千円が使える女になりたかったの。こういう、どうでもいい飲み物とかお菓子に」

 さきちゃんがくすりと笑う。

「早く食べなよ。美味しいよ」

「うん」

 頷いて、アイスを口に運ぶ。思ったよりも安っぽい味が広がった。これから海に飛び込むなんて嘘みたいな昼さがりだった。

公衆電話保護運動

 公衆電話を探そう、と言い出したのはヒデだった。特にこれといった理由がある飲み会ではなかったけれど、一次会から店を移して二次会へと続き、みんなひどく酔っぱらっていた。学部の授業の話から、昨日作ったカレーライスにいきなり話がとんでも、誰も違和感を持たずに相槌を打っていたぐらいだ。公衆電話の話はそういう時にふってわいてでたのだった。駅前の公衆電話が消えたよね、という話を誰がしたのかはもう覚えていない。ヒデはそれにひどく怒りを示した。

「公衆電話が排斥されてるんだよ、よくないよ、この流れはね。この排斥運動はね、今に俺たち民衆にも及ぶよ。その前に公衆電話を救わなきゃ」

 あたしは拍手をした。ブラヴァ、と叫びもした。とても迷惑な客だったことは間違いない。

「救いに行こう、公衆電話を」

「でもどうやって?」

 ユキがそう尋ねる。冷静にツッコミを入れた彼女が、実際はそう取り繕って見えているだけだというのはだいぶ前からはっきりしていた。

「使うんだよ。みんな使わないから要らないんだろって言われるわけ。使ってますよ、需要があるんですよ、って言えば、撤去もできないだろ」

 公衆電話を救おう。あたしたちはそう口ずさみながら店を出た。外は湿っぽいにおいがして、遠くで雷が鳴っているのも聞こえた。雨が降りそうだね、と誰かが呟いたけれど、家に帰ろうと言い出す人はいなかった。それよりももっと大事なことが、今は差し迫っているのだ。

 夜の街を目的地も決めずにさ迷い歩いた。排斥されている、という割には、公衆電話は簡単に見つかった。そのころにはしとしとと雨が降り出していたので、3人で無理矢理電話BOXに押し入った。

 電話をかけたのは言い出しっぺのヒデだった。覚えている番号はこれしかない、と言って、実家のダイヤルを回した。深夜0時ころ、誰も出ない可能性があったけれど、何度か呼び出し音が鳴った後に、無事誰かが受話器を取ったらしかった。ヒデは二言三言会話を交わすと、首をひねりながら受話器を置いた。

「ねえ、出たの」

「誰が出たの? 12時回ってるんだけど、ヒデのうち緩すぎない?」

「姉貴だよ。でもなんかなー、全然話通じなくて」

 ヒデは酔いが醒めたかのように真面目な顔に疑問符を浮かべていた。ヒデが酔ってるからでしょ、お姉ちゃんのせいにするな、と茶々を入れる。

「イヤ、マジでバスとかなんとか」

「聞き間違いじゃない?」

 そう言ってあたしたちは三次会の話題を出した。家で飲み直すうちにヒデも含めみんな公衆電話保護運動のことを忘れ、サークルの話で盛り上がったのちに気絶するように眠りについた。

 

 後から聞いた話だけれど、その夜お姉さんは帰りのバスが事故に巻き込まれ、意識不明の重体になっていたそうだ。酔っぱらって携帯の確認を忘れていたヒデは散々に絞られたらしい。病院で生死をさ迷っていたお姉さんが自宅にかかってきた電話をとれるはずがない。

「マジのとこ、けっこう怪しかったらしいんだよね。ギリギリのところで戻ってこれたのは、俺の電話のおかげじゃない?」

 ヒデはそう言って胸を張るけれど、お姉さんに電話の記憶はないらしい。そしてヒデ自身も、実際に何を話したのかは翌日の頭痛と代わりに失っている。本当にお姉さんと話したのか、得体のしれないものと話したんじゃないかともあたしは疑ってるけど、確かめる方法はなくて疑問は宙に浮いたままだ。しいていえば、ひどく酔っぱらったときは家で飲み直すことに仲間内決めたことだけが、事実として存在している。

 

※お題は「臨死」「公衆電話」「遠雷」を使用しました。

 

停滞という幸せ

はじめに

こんにちは。初めまして(?)雨間です。アマアイと読みます。雨間寂だったり、雨間ジャックだったり、雨間単体だったりで小説を書いています。このアドベントカレンダーを作ってくれた漣君と同様、筑波大学の文芸部に所属しています。

小説を書き始めたのは小学生の頃からで、高校まで文芸部というものが無かったので、大学で初めて所属することができました。小説を持ってきて確実に感想をもらえる場というのはとても貴重で素敵だと思うので、野良で書いている人はぜひ遊びに来てください。

 

小説を

自己紹介はここまでにして、早々に小説を置いておきたいと思います。今回のために書き下ろした作品です。

amaaijack.hatenablog.com

BLですが、ここまで読みに来てる人に忠告するのは今更ですよね。

小説だけ読んで帰るのもよし。このまま読み進める場合は、解説になるので、先に小説を読んでおくことをお勧めします。

 

解説:停滞という幸せ

書いた小説を自分で解説する以上にいやらしいことはないと思うんですが、せっかくのアドベンドカレンダーの記事なので何か書きたい、で書いたら解説以上の何でもなかったので仕方なく載せることにしました。 

 

これは幸せな物語です

前提条件として、私は今回のために小説を書こうと思ったときに、クリスマスをテーマとして幸せな物語に書こうと考えたことを理解してほしいです。せっかくのクリスマスなら、ハッピーな話を読みたいし、そんな要望に応えたいというのは自然な発想ですよね?内容にもそんな私の意思が明示されていたと思います。

冗談はそこそこに。

結局、主人公は振られているし、女の先輩とも付き合わないし、全然幸せになってないじゃないか。どこが幸せな物語なんだ。そう思うのも当然だと思います。

でも考えてみてください。

思い出だけで、寂しいとも思わず生きていけるなら、それは素晴らしい人生だと思いませんか?

 

BLが書けるようになりました

ちょっと話がずれますが、私はずっとBLが書けませんでした。というのも、男性が何を考えているのかさっぱりわからなかったからです。

私は小説を書くときは、「どこかにいそうでいない人」を書くように努めています。かつて好きだった人が死んで喜ぶ女*1しかり、秋になると情熱が冷める男女*2しかり。何故かっていうと、そういう話が好きだからですね。でも、男性が何を考えているかわからないのに、リアリティとフィクションの絶妙な隙間を狙うことはできません。なので、ずっとBLには手を出していませんでした。

のですが、今回幸せな物語を書こうと思ったとき、それほど幸せで完璧なものならば、逆にリアリティの薄い、完全なるフィクションとなってしまうBLに託したほうがいいのではないかと思ったのです。

そういうわけで、初めて*3BLを書くことになりました。

 

停滞という幸せ

そういえば、女の先輩は振られているし幸せになっていないのでは? という問いがあると思います。それは全くその通りです。でも彼女は生きているし、いつか幸せになると思います。

「彼女は生きている」ならば、彼は生きていないのか? 

生きていないんです。彼は思い出だけを抱えていくという現状に満足して、停滞しています。変わらないというのは生きていないというのと同じです。でも、変わるというのは労力を使うし、失敗する可能性もあります。そんなことをしなくても幸せだというのは、羨ましい生き方だと思います。

(逆にいえば、完全なる幸せを手に入れたらこれ以上生きていなくてもいい、というのは私の作品の根底にあると思います)

もっとも、思い出だけで生きていけるなんて現実にはそんな人間はいません。停滞している人間がいたとしても、何か変わりたいという思いや不安を抱えているはずです。

 

そんな現実には囚われない、完全なるフィクションの世界の住人をBLという形を通して描かせていただきました。

 

終わりに

今回はBLというフィクションの世界と、停滞という幸せについて語らせていただきました。普段はGLやNLをメインにして書いています。NLはこのブログに沢山載っていますね。定期的に更新しているので読んでもらえると嬉しいです。GLはまだこちらには掲載していませんが、数か月前に発行した個人誌に載っています。 

残り部数がいくつかあるので、欲しい人は連絡ください。

宣伝で終わり!よいクリスマスを!

 

 

※ この記事は筑波のクリエイター Advent Calendar 2017 - Adventarのために作成されました。

*1:「二十歳になれなかった西山君」より「にどと」

*2:秋風に手を振って - amaaijack’s blog

*3:正確には今回の前に1つ話を書いている。樹林クリスマス号に載る予定。

メリー・クリスマスは遠く

 トナカイとサンタの黒い、がらんどうの瞳が僕を見つめている。オマエ、ソノママデ本当ニイイト思ッテル? 適当にアフレコしてみて、いったい彼らは何のことを言っているんだろうと自問自答した。

「ねえ、ちょっと」

 先輩が僕の腕をつついた。

「なにぼーっとしてるの? もう会計しちゃうって言ってたよ。食べたいものあるなら籠に入れなよ」

「あー、うん……」

 視線の先を覗き込んだ彼女が、けらけら笑った。

「え、なに? ケーキ? クリスマス仕様じゃん、えー、なにこれ買いたいの? かわいー」

「あー。いいんスよ」

「いいの? 買えばいいじゃん。クリスマスしか食べられないよ?」

「ホールケーキ買ったらしいじゃないスか」

「あーそっか。確かに。被りは困るなあ」

 後ろから先輩の名前を呼ぶ声が聞こえて、彼女は振り返る。お酒飲みますよね、何がいいですか、と瓶が数本掲げられていた。彼らのもとへ、彼女は軽い足取りで向かっていく。僕はその後ろ姿をぼんやりと見つめた。

 真崎と二人でコンビニのケーキを食べたクリスマスは、遥か遠くにあった。

 

+++

 

 同じ学類で、宿舎も同じとなれば、仲良くなるしかなかった。真崎は真崎健吾という。マサキという響きが名前みたいでみんな苗字で呼んでいた。GPAはそこそこ、サークルはバスケでバリバリの体育会系。中学生男子みたいに下ネタが大好きなのが欠点だけど、女子の前で発しない分には問題はない。

 監獄みたいな宿舎に僕と真崎はうんざりして、夏には脱出計画を立て始めた。広いアパートを借りて、二人でルームシェアするという手を先輩から教わった。共同生活に慣れた人なら、家事を簡単に終わらせられるし、なにより家賃が安い。

 僕たちの大学では、クリスマスと期末試験がちょうど被る。テスト期間に入る前になんとか引っ越しを終わらせられて、僕たちはほっとしていた。しかしすぐにテスト勉強に追われて、気が付いたらクリスマスイブになっていた。

「クソッ、コイツ彼女とデートしてやがる!」

「嘘だろ? 明日は線形のテストなのに?」

「チクショー、俺だってクリスマスしてえよ!」

 地団駄を踏んだ真崎はシャープペンシルを放り投げた。道連れに僕まで近所のコンビニに引きずられ、クリスマス使用のミニケーキを買わされることになった。なんでこんな小さいケーキが三百円もするんだと文句ばかり言いながら、僕たちはケーキをむさぼり食った。小さなケーキは一瞬で口の中に消えていった。

 そのクリスマスには、何の含意もなかった。僕たちはただ、自分を慰めるためだけにケーキを食べた。それだけだ。まだその当時、僕と真崎が体を重ねることはなかったから。

 

+++

 

 またサンタだ。

 クリスマス用のケーキだからサンタの飾りがついているのは当たり前なのかもしれない。ケーキの上に佇んでいる赤い服のおじいさんを、取り上げてどこかに隠してしまいたくなる。サークルのメンバーから白い目で見られるとわかっていても。

「またサンタみてる。好きなの?」

「好き、ってわけじゃないけど……」

「じゃあそれ取っちゃいなよ。いいよー、誰も文句言う人いないって」

「エッ、でも別に飾りもらっても……」

 彼女は目を丸くして僕を見た。

「これ飾りじゃないよ。食べられるんだって」

「嘘でしょう」

「嘘じゃないよ。マジパンって言って。エッ、ずっと捨ててきたの? 勿体ない!」

 本当に食べられるから。試してみてね。彼女はそう言って僕の紙皿にサンタを置いた。近寄ったせいで彼女の香水がふわりと香る。おじいさんは、さっきよりずっと近い距離から、僕を見上げてくる。皿がずっしりと重くなったように思えた。

 

+++

 

「彼女ができたんだ」

 真崎がそう言ったのは、夏のことだった。

「えーと、だから、もうセックスはできない」

 そのとき僕の中にあったのは、そうか僕たちは恋人じゃなかったのか、という微かな驚きだった。

 年を越したあたりから、「オナニーよりはマシ」と称して、僕たちは体を重ねるようになった。それは寒さに凍えるからだを寄せ合って温めるのに似ていたが、春になってからも続いていた。真崎にそう言われるまで。

 なるほど確かに、告白もしていない。二人で出かけたのも男同士ならよくあることだ。これで付き合っていたなんてどうして言えるだろう。

「ヤ、黙ってたのはゴメンって。でも俺もこんなに早く話が進むと思ってなかったんだよな」

「あ、いや、別に、怒ってたわけじゃなくて」

 この感情は何て言うんだろう。自分でもわかっていないものを他人に説明することはできない。

 代わりに目下の事案を伝えた。

「アパート、出たほうがいいんだろうなって」

「え、別にいいだろ」

「いや、普通に嫌だろ。セックスしてた相手とまだ同居してるなんてさ。後々バレたときに面倒だぞ」

「それもそうか……」

「何だったらさ、僕の部屋に住めばいいじゃん、彼女」

「あー……」

 真崎は腕を組んで真剣に考えだした。じゃあ僕物件探してみるわ、と声をかけて部屋に戻りかけたとき、あ、と真崎が声をあげて僕を呼び止めた。

「なに?」

「もうできないけどさ、お前とのセックス、マジで気持ちよかったから。これホント」

 僕は笑ってしまう。

「え、何だよそれ。ありがとうって言えばいいわけ?」

「おう、言え。感謝ならいくら貰っても足りん」

「言わねーよ。まぁ僕も気持ちよかったわ。もうできないのが惜しいぐらい」

 僕はようやくいま抱いている感情が何なのかわかった。

 これは喪失感だ。

 

+++

 

 家が近いから、という理由で先輩は僕が送ることになった。自転車を押しながら並んで歩く。かなり酔っぱらっている先輩の足取りは怪しいけれど、深夜帯のこの町の交通量は0に近く、最悪の事態には至らなさそうだ。

「ねえねえ、クリスマスって予定あるの?」

 ないですって答えたらどうなるんだろう。その結果を、なんとなく僕は察していたけれど、踏み込むつもりはなかった。

「テスト勉強っスね」

「あ…そっか。そうなんだ」

 酔っぱらった先輩は落ち込んだ様子を隠すそぶりもない。

「……これは、あたし、振られちゃったかな?」

 自嘲の中に確かに涙声が混じっていて、はっと驚いた。先輩が僕に好意を抱いていることは気づいていた。外堀を埋めるようにアプローチされては、気づかずにいられない。そのこと自体は、嫌ではなかったけれど、この関係を進展させるつもりもなかった。誤魔化していたのは罪だっただろうか。

「好きな人が、いるんですよ」

 言い訳するように口に出した。

「ずっと、これが好きって感情なのかわからなかったんです。嫉妬もしなかったし、側にいたいわけでもないし。でも最近、たびたびその人とのことを思い出して、それだけで幸せな気持ちになって。だからきっとこれは、好きなのかなって」

「あたしのこと好きだったら、他に好きな人がいてもいいよ」

「いや、僕、あの人の思い出だけで、充分だから。これ以上は要らないんです」

 とてもひどいことを言っているという自覚はあった。先輩も、ひどいよ、と言った。ひどいよ、すごく自分勝手だよ、と繰り返した。

「すみません」

「……ううん。まあ、仕方ないかな。そんな君だから、きっと好きになったんだと思う」

 先輩は押していた自転車に飛び乗った。まだ酔っているのにと慌てる僕を尻目に、じゃああたしの家はこっちだから、と颯爽と去っていく。後には僕だけがぽつんと取り残された。

 取り残されてしまった。

 でもそれは僕が選んだ道だった。そういう道を僕はこれからも歩んでいくのだ。寂しいと思う日まで、それまでしばらく、独りふわふわと漂い続ける。それが僕にとっての幸せだった。

 

※この小説は筑波のクリエイター Advent Calendar 2017 - Adventarのために書き下ろしました。

秋風に手を振って

 良樹がこっちに帰っていることを知ったのは、彼が東京に戻る直前だった。メールが飛んできて、可能な限り早く駆け付けたけれど、結局会えたのは新幹線の待ち時間になってだった。彼は駅の横のカフェで私にはわからない専門書を広げていた。

「ごめん、お待たせ」

「いや、」

 良樹は首を振ってから、私がコーヒーにとめた視線に気づいて言葉を切った。だんだんと寒くなる季節に合わせて温かく作られたブラックコーヒーは、半分ほど残して、完全に冷え切っている。彼がこのカフェに来てからずいぶんと時間が経っていることの証拠だった。

「いや、まあ、座りなよ」

 いま来たところだよと平然と嘘をつくことも、待ちくたびれたよと茶化すこともない。うん、と頷くことしか私にはできなかった。エプロンをつけた店員が注文を聞きにくるまでの一瞬の間、不自然な沈黙が落ちる。私は内心首をかしげる。夏はこんなんじゃなかった。絶対に違った。もっと楽しく話したはず。何が変わったのだろう?

「久しぶり。やっと会えて、嬉しい」

「そうだね。俺も、もっと来れたらいいんだけど」

「ううん。お互い学生だし仕方ないよ」

「うん」

「……」

「急で、悪かったな」

「そうだよ。せっかくこっちに来てるなら、もっと早く教えてくれれば、ちゃんと時間とって会えたのに」

「ごめん。急な法事でさ、俺も、自由に時間があるかわからなかったから、あんまり期待をさせて落胆させるのも嫌だなって」

 それでも、と言いたくなる言葉をぐっとこらえる。きっと彼も私のことを考えて、こういう行動をとったのだから。けれど、私が何か文句を言いたかったということは伝わってしまっていた。そしてそれを他人行儀に抑えてしまったということも。

 沈黙。

 続く言葉が思いつかなくて、窓に目をやる。道の木々は、すっかり赤と黄に色を変えていた。

 まだ葉が青々としていた夏のことを思い出す。彼と初めて会った夏休みのこと。一日中外で遊びまわった二人の夏のことを。暑い日差しの中で、私たちの間には笑い声が絶えなかった。些細なことを二人の秘密みたいに確かめ合って、一日中話していた。森林公園での初対面のときのほうが、よっぽど今より親しくみえたはずだ。

 あのころが懐かしい。遠距離恋愛だって大丈夫だと思っていた。大学を卒業したら、彼についていけばいい。必要なら、ちゃんと家族という形になって。

 目の前の彼を見る。彼がこんなにも遠く感じるのは、離れ離れに住んでいるからだけじゃない。そんなことで私たちの仲が揺らぐはずがない。冷たく肌を刺す秋の風が、きっと私たちによくない魔法をかけたのだ。

「あ」

「どうかした?」

「時計、見間違えてた。もう電車が出るから、行かないと」

「え、急ぎなよ」

 腰を浮かせた私を、良樹は制止した。

「綾子はいいよ。飲み物も来たところだし、ゆっくりしていきなよ」

「……うん」

 浮ついていた私の前に、店員がカフェオレを置く。白い湯気が立ったそれは、とてもではないが一息で飲み干せそうにはなかった。

「じゃあ、また電話するよ。帰省するときには、連絡するから」

「うん」

 じゃあね、と手を振る。マグカップは熱くて持てなかったから、窓の外を歩いていく彼をぼんやりと見送って冷めるのを待つ。急いで帰省したという言葉通り、軽装の良樹は、まるでデートから帰るだけみたいに見えて笑えてしまった。まっすぐに駅へと向かっていくというのに。

 いまのさよなら、はきっと本当のさよならになる。そのどうしようもなく寂しいその予感を、私には避ける方法がわからなかった。

 

※お題は「任意の楽曲をテーマ及びタイトルとする」
「秋風に手を振って」はアイドルマスターシンデレラガールズの楽曲ですが、今回のキャラクターはゲームとは関係ありません。

夢うつつ

 ドアベルが軽やかな音を立てて来客を知らせた。薄明るい室内を見渡すと、ほかに客はいないようだった。まっすぐに視線を戻すと、グラスを拭っていたバーテンダーと目が合う。彼はわたしに微笑みかけると、すっとその後ろへと目を走らせた。つまり、真っ暗な闇が広がる外へと。

「どうですか、外は」

「もう全然だめよ」

 目線で勧めてくれたカウンター席に座る。

「ひどい霧なの、これっぽっちもまわりが見えないぐらい。やっているお店があってよかったわ、家へ帰るのは諦めたほうがいいんじゃないかと考えていたところなの」

「それは災難でしたね」

「ほんとうに」

 華奢な小皿にのったチーズをひと欠片と、オリジナルのカクテルだというオレンジ色のアルコールをひとくち胃に入れると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。

「こんな霧じゃ、看板もクローズにしたくなるんじゃないかしら?」

「しかし、開けていたお陰で、こんな美人なお客様をお迎えすることができました」

 仰々しいバーテンダーの台詞に、思わずくすくす笑う。

「ねえ本当に、わたし朝まで飲んでいようかと思うのだけれど、大丈夫? あなたの、たとえば、心穏やかな睡眠とかに、支障をきたさないかしら?」

「もちろん大丈夫ですよ」

「よかった、ねえ、かかっているのはレコード? それともラジオ?」

「レコードですね」

「もうちょっと音を大きくしてもらってもいいかしら」

「かしこまりました」

 そう言ってバーテンダーが奥に下がる。少し大きくなった音楽に、小さく鼻歌を口ずさんでみた。どこか懐かしいメロディを感じたのは間違いではなかったようだ。

「これ、あれでしょう、十年ぐらい前にはやった。歌もついていないしピアノになっているけれど」

「ああ、そうですね。歌謡曲をカバーしたアルバムなんです。よくわかりましたね」

「当たり前よ。わたし、毎日この曲ばっかり聞いていたんだもの」

 あの夏に君と出会い、初めてわたしの世界が動き始めた。二人ならどこまでも行ける。さあ、旅に出よう。遠い遠い海の向こうまで。

 そういう曲だ。今でもはっきりと思い出せる。

「きみのても、めも、かみも、なついろをして、らら・・・」

 バーテンダーは囁くように歌うわたしを一瞥して、何も触れずにシェイカーに向き直った。それはわたしも望んでいた態度だった。わたしの心は、小さな古びたバーから飛び立ち、十三歳の夏に戻ろうとしていた。

 わたしは毎日ラジカセにかじりつくようにしてあの曲を聴いていた。自分にも特別な男の子との出会いがあって、彼が新しい世界へ連れて行ってくれるんじゃないかって。そんな女の子はあのとき数万人いて、でもわたしは実際にそんな男の子と出会えた、幸運な女の子だった。

 わたしたちは夏のビーチで出会った。彼は茶色の髪をきらめかせて、わたしの手を引っ張ってどこへでも連れて行ってくれた。そうして、遠い遠い南の地で、わたしたちは小さなシングルベッドで抱き合うようにして眠ったのだ。

 それから、

 それから?

 それから何が起こったんだろう。何も思い出せない。あの歌詞も、彼の笑顔も、はっきりと覚えているのに、それからの物語を何一つ語ることができない。まるで時間が、ぷっつりと途切れてしまったように。

 そもそも、わたしはどうしてこのお店でお酒を飲んでいるんだろう? 霧がひどかったからだ。じゃあどうして、こんな霧がひどい街を歩いていたんだろう? 家に帰るために? そう、それは確か。じゃあどこからやって来たんだろう?

「おかわりはいかがですか」

 おそるおそる顔をあげると、彼がいた。茶色の髪を電球で照らして、微笑む彼が。

「わたし、……夢を、見ていたのかしら」

「さあ」

「それとも、いま見ているこれが、夢なのかしら」

「さあ」

 彼は微笑むばかりだ。

「……お代わり、そうね、もう一杯いただこうかしら」

「霧が晴れたら、お帰りになられるといいですよ」

「そうね、もう潮時ね」

 冒険の終わりがこんなだなんて最悪だ。投げやりな気持ちになって、甘ったるいカクテルを一息で飲み干した。

「マスター、おかわり」

「かしこまりました」

 グラスを掴む彼の骨ばった指に見惚れる。このまま時が止まればいいのにと願って、それはあの夏には決して思わなかったことだった。わたしはもう十分に大人になっていた。

 

 

※お題は「濃い霧」「夢」「ボーイミーツガール」でした。

言葉の遣い方

 下駄箱のところで真理亜に出くわした。待っていたの、と聞くと首を振る。じゃあ偶然? と尋ねると首をひねる。よくわからないけれど、無口な真理亜から事情を聞きだすのも面倒なので、一緒に帰ることにした。

 靴を履き替えて外に出ると、太陽は既に姿を隠し、空は紺色に侵されようとしていた。突風が吹いてマフラーを締め直す。季節の変わり目は好きだけれど、いきなり寒くなるのはどうもいけない。遅れて隣に立った真理亜も、手を擦りあわせて暖をとっている。

「そういえば、吸血鬼が出るんだって。そっちのホームルームでも言ってた? 帰り道に襲われないよう気をつけて、って」

 真理亜にそう言えば、彼女は小さく口を開いた。

「くだらないね。時代錯誤」

「まあ、彼らだっていろいろ大変なんだよ。日照時間が長い夏はあんまり外出もできないし、そう考えれば、季節ものと思えば……」

「思えば?」

「面白い、かも?」

「面白くはないと思うけど」

 真理亜は嘆息しながら歩き出す。その足取りに吸血鬼への怯えはない。それはそうだ。陰陽師の直系の血を引いている彼女を傷つけられる妖はそういない。

 歩きながら明日の小テストの話をする。英単語の暗記を問うそれは、聞けば真理亜のクラスは先に実施しているそうで、いい話が聞けた。そのほかにも来週のスポーツ大会の話をして、T字路に差し掛かった。

「じゃあね、真理亜。また明日」

 真理亜が頷く。

「うん。『さよなら』

 あっと思った瞬間には、僕の意識は暗闇に落ちていった。最後に見たのは、呆然とした真理亜の姿だった。

 

 

 次に気づいたとき、僕は落下していた。自分を中心に渦巻く階段の群れが上へ上へと流れていく。落ちている、そのことを意識するのに数秒かかる。意識してからも、自由落下に体を任せてしまいたいという気持ちに身を任せたくなる。

 この空間にいるのは、実のところ、心地よい。体に痛みが走っていないときは、特に。しかし、底まで落ちきってしまえば面倒なことになるのはわかっているので、仕方なしに階段に手を伸ばす。何度目かの挑戦で、冷たいアスファルトを指先で掴むことができた。もう片方の手も伸ばし、無理矢理自分の体を引き上げた。

 上を見上げると、階段はどこまでも続いているように見えて、どこかからか白い靄に包まれている。さらに目を凝らせば、靄が徐々に徐々に降りてきているのもわかる。

 今回はどこまで上りきれるかな。そう思いながら一歩を踏み出す。真理亜が心配しているだろうから、早めに帰ろう。

 

 

 目を開けると視界が美少女の顔で埋まっていた。

「近い。近いよ、真理亜」

 思わず唇がくっついてしまいそうなぐらい近い。

「ごめんなさい」

 そう言って真理亜が身を引く。謝罪には今の状況以外の意味も含まれていると感じた。

「僕、どのくらい寝てた?」

「わからない。一分もしないくらいじゃないかな」

 立ち上がって体の調子を確認する。ぴょんぴょん、とジャンプしてみたがおかしなところはないようだった。

「僕の外見、何か変わってる?」

「見たところ変化はないようだけど」

「じゃあ失ったのは数日とか数週間とかそんなものかな」

「ごめんなさい」

 真理亜がまたうなだれる。僕は苦笑して言葉を重ねた。

「痛くもなかったし、別にいいよ」

「もっと怒ったほうがいいよ、殺されたんだから」

「うーん、まあ、もうちょっと言葉は大切にしてほしいと思うけどね」

「そうね、気をつける」

 いつまでも道端で話し込んでいるわけにもいかない。鞄を拾い上げて、再びT字路に立った。

「じゃあね、真理亜。また明日」

「うん。また明日」

 分かれ道を、お互いの家へと歩いていく。数歩歩いたところでふと足をとめ、来た道を駆け足で戻った。

「真理亜」

 振り返った真理亜の顔は未だ眉が下がっている。

「悪いと思っているなら、明日のテスト、協力してよ」

 真理亜が目を丸くして、それから苦笑した。

「仕方ないな。自分で勉強しないと意味ないんだよ?」

「わかってる。今回だけ」

「特別だよ」

 その薄い桜色の唇が、そっと開く。さあ、と風が吹いて彼女の髪を靡かせた。

『あなたは明日のテストで満点を取る』

 幻想的な予言風景の割には、俗な内容だ。彼女もそう思ったのか、唇をとがらせた。

「今回だけだからね」

「わかってる。じゃあね、真理亜」

「うん」

 先ほどの道を先ほどより軽い足取りで歩く。

 一回死んだだけでテストの点が上がるなんて、儲けものだった。

 

※お題は「ローファンタジー」「螺旋階段」「さよなら」でした。