無題(2021/01/23)
蝉の声が耳につく。そうだ、窓があいているのだ。閉めたいけれど、ベッドから起き上がるのは面倒くさい。
ベッドに横になりながら、キャンバスに向かうしぃちゃんの背中をぼんやりと眺める。この時間が一番好きだった。二番目に好きなのは、しぃちゃんとキスをしているとき。三番目は、しぃちゃんの絵のモデルをしているとき。四番目は――。
いや、やめよう。
つまり、しぃちゃんといないときは生きている意味なんてないっていうことだ。もっとも目的もなく大学に入って、流されるまま講義を受けているような人間なんて似たようなものだと思う。それが恋に浮かれれば、こうなるだろう。とうぜん。
「――し、」
い、ちゃん、と続けようとして、やめた。きっとしぃちゃんは振り向かない。集中しているときは私の声なんて届かないし、届いたとしても無視するだろう。しぃちゃんにとって私なんてそんなものだ。私はしぃちゃんのことが好きだけれど、しぃちゃんはとって私は、せいぜい無料でモデルになってくれる便利な人、ぐらいの認識だろう。
彼女に中庭で初めて会ったときのことを思い出す。あの、と声をかけられて、びっくりした。私の理想的な造形の顔が目の前にあったからだ。グレージュの髪はゆるく巻かれていて、風になびいていた。大きな目が、パチリと瞬く。睫毛が長い。
後から、綺麗なカールと思ったのはただの天パだとわかるのだけれど。
『え、……っと、なんですか?』
『絵のモデル、してほしいんですけど』
『モデル?』
『はい。わたし、』
彼女は手にもったスケッチブックを広げた。
『洋画を専攻してて。あ、と、あっちの建物に芸術系の学科があるんですけど』
『知ってます』
スケッチブックの中には、紙いっぱいにスケッチが描かれていた。ランダムに広げてそうだったのだから、きっとどのページも同じなんだろう。パッと見て、レベルの高さがわかった。すごく、上手だ。
『よく、知ってます』
『あ、そうなんですか。えっと、それで、どうですか?モデル』
『モデルをしたら、私に何かいいことがあるんですか?』
『あー、そうですね。もちろん報酬もありますよ。お金とか、あとわたしにできることなら』
『付き合ってくれますか?』
彼女はパチリと、瞬きをした。
『交際、してほしいんですけど。恋人になってほしいんです』
『あ、はい。いいですよ』
彼女は顔色ひとつ変えずに言った。頭がカッとなった。
『いいんですか?私、女ですよ。本当に付き合えるんですか?』
『できると思います』
『キスできるんですか?』
『えっと、お金は要らないんですよね?大丈夫ですよ、キスぐらい』
もともとレズビアンかバイセクシャルなんだろうか。それにしたって、お金の代わりに体を売るような真似をするなんて、よく悩まずに即答できるものだ。それほどの覚悟がないと、絵を描くことはできないんだろうか。
『じゃあセックスも?』
『はい』
彼女の顔がぐっと近くなった。一歩踏み出したのだ、と気づくと同時に、唇が触れ合った。
二の腕を彼女の手がつかんでいる。瞳しか見えない距離で、もう一度言った。
『できますよ、それぐらい』
そうして、私は彼女の恋人になり、モデルになった。
ベッドに横になったままで、しぃちゃんの背中を見る。華奢な身体は布ひとつまとっていない。彼女は抱き合ったあと、服も着ずに絵を描くのが好きだった。どうしてかは知らない。シャワーぐらい浴びたら、とアドバイスをするけれど、彼女が私の言う通りにしたことはない。
日の光を浴びたことがないような背中。傷ひとつないその肌に爪を立てて引っ掻いてしまいたい欲望にたまにかられる。ひぃちゃんの顔も、身体も、声も、すべてが愛おしいのに、一筋だけでいいから傷をつけたい。
「あいちゃん」
いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。静かな夜の部屋に、ひぃちゃんの声だけが響く。
「わたし、あいちゃんが思っているよりも、あいちゃんのこと好きだよ」
私は何も答えない。
「あいちゃんも、わたしと同じぐらい絵が描けたらよかったのにね」
ああ、本当に、この女のことが世界でいちばん嫌いだ。
筑大深夜の真剣SS60分一本勝負(2021/01/23)のために書きました。
お題はかく:「描く」「搔く」(引っ掻く)です。
嗚呼素晴らしきかなメリー・クリスマス
クリスマスが毎年楽しみだった。一年でいちばん好きな日だ。二番目は誕生日。なんで誕生日が二番目かっていうと、誕生日は僕と、僕の家族や友人だけが楽しいけど、クリスマスは街中のみんなが楽しい日だから。だからいちばんだ。
クリスマスって、すごく素敵なイベントだと思う。十二月に入ると、イルミネーションがどこからともなく現れて、街中が輝きだす。街灯についたスピーカーはクリスマス・キャロルを流して、それを聴くと自然と心が弾んでしまう。もうすぐクリスマスだ!って。
実のところ、僕は一回もサンタクロースに会ったことがない。サンタはいないよって友達は言う。大学生にもなって未だに信じてるのかって笑われてしまった。小学生のころはみんな真面目に話を聞いてくれたのに。僕はずっと信じてる。というか、いるって知ってるんだ。だって毎年、サンタクロースは僕が欲しいものをくれるんだから。
十歳のときは、最新のゲームソフト。
十五歳のときは、ずっと欲しかった革のジャケット。
二十歳の――今年は、きみを。
きみと離れ離れになってしまったとき、とても悲しかった。
きみは僕の初めてできた恋人だった。きみといるだけで、こんなにも世界が輝くのかと驚きの連続だった。もちろん、人を好きなったのは初めてじゃない。家族も、たくさんの友人も、みんな僕の大切な人だ。でも、誰か一人だけを幸せにしたいと思ったのは初めてだった。
一緒にいろんなところに行ったよね。覚えてる? 真冬に北海道に行ったときのこと。テレビで札幌の蟹の特集が組まれていて、どうしても食べたくなったんだ。きみは冬に北海道なんて行くものじゃないと行ったけれど、最後は着いてきてくれたね。蟹は美味しかったし、真冬の北海道は想像よりも寒くって、僕はすごく楽しかった。あんなに雪が積もっているのをみるのは初めてだったから、思わず飛び込んでしまったんだよね。貴方といると、世の中に悪いことなんて何ひとつないみたいに思えちゃうわ、ってきみは声をあげて笑った。その笑顔は、天使みたいに綺麗だったんだ。
だから、そんなきみともう二度と会えないとわかったとき――僕は目の前が真っ暗になった。君がいない世界でどうやって生きていたのか、もう思い出せなかった。無理だとわかっていても、もう一度きみに会えたら。せめて、温かい言葉で見送ってあげたい。どうして最後に会ったとき、あんな些細なことで喧嘩してしまったんだろう。
もう一度、きみの笑顔がみたい。この腕できみを抱きしめたい。
きみに、会いたい。
そう懇願するように日々を過ごしていたところに、きみが帰ってきてくれたのは、まさしく奇跡だと思った。十二月の二十四日。バイトから戻ってきた僕のアパートのドアの前で、きみは寒そうに立ち尽くしていた。きみではない、とは疑わなかった。だって明日はクリスマスだ。サンタクロースからのプレゼントだ、と思った。
たしかに、今のきみの足は透き通っていて綺麗なブーツは履けないし、抱きしめようにもその体をすり抜けてしまうけれど、そんなことは関係ない。再会してからのきみの言葉は難解で、聞き取れないことが多い。一度離れ離れになってしまったときに、新しい言語を覚えてきたんだよね。でも偶に日本語で喋ってくれるから、そのときのきみの声音に僕はうっとりとしてしまうんだ。相変わらず、鈴が転がるような可愛らしい響きを聴かせてくれる。どんな姿であろうとも、きみは間違いなく僕の恋人だ。
「じゃーん。クリスマスケーキ、買っちゃった。きみが食べられないってわかってたけど……でも、可愛いでしょ? 僕が食べるから、無駄にはならないよ」
箱から出した2ピースのケーキをきみの前に並べる。
『銀h慮』
きみが何かを言って、少し寂しそうに笑った。せっかく買ってきたのに。食べられないのはやっぱり嫌なんだろうか? でもせっかくのクリスマスだから、形だけでも整えて盛り上がりたかったんだ。
『貴方が、』
日本語だ。僕はぱっと顔をあげた。きみの言葉は一言一句聞き逃したくない。
『世界の見え方を変えてしてくれるんだって思ってたときもあった。違うのね。貴方はただ、悪いことを見ないようにしてるだけなのよ』
「どういうこと?」
きみは風呂場を指さす。実は最近掃除をさぼっていて、近所の大衆浴場に通っている。ちゃんと掃除をしろ、ということだろうか? たしかに、ちょっと匂いがきつくなってきたような気もする。
「掃除? でもめんどうなんだよなあ。今日はクリスマスなんだからいいでしょ。また今度やるよ」
『今度っていつ?』
「うーんと……」
『いま』
「え?」
『いま、やってきてよ。いますぐに、あの風呂場のドアを開けて、中の、わたしの、ぎたいdごwみtghけてmfdffぢょわひs度wp簿とぢgky底をさっさと御代rンsd氏よ』
あ、また聞き取れなくなってしまった。きみの口が動いているから、何かを喋っているのはわかるけれど、意味をなさない音の並びにしか聞こえなくて、何を伝えたいのかはわからない。すごく残念だ。きみの言葉は一言一句聞き逃したくないのに。
ええと、それで。
何の話だったっけ。
「あ、そうだ、クリスマスケーキ。しょうがないから、僕が二個食べちゃうね。違うよ、決して二個食べたかったとかじゃなくてさ、あはは」
『えshすんs』
きみはまた寂しそうに笑う。きみの輝くような笑顔が好きだったけれど、ずっと見ていない。でも、無理して笑う必要なんてない。きみが笑わない分、ぼくが笑うから。いつかきみが自然と、声をあげて笑ってくれるのを待ってる。
フォークで掬い取った一口は、一口というには大きすぎたけど、思い切って頬張った。去年、一緒に選んだケーキ屋さんの味はそのままだ。外はホワイト・クリスマスで、ケーキは美味しいし、こうしてまたきみと一緒にいられる。
やっぱりクリスマスって一年でいちばん楽しい日だ。
後書き
・筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。既視感がある?2回目なので…。上記の小説は12/15のために書き下ろしました。
・前回が明るい話だったので、暗い話を書こうとしたのですが、楽しい話になってしまいました。不思議だなぁ。
新生
君だけが
君の掠れた低い声だけが
私を連れ去っていく
* * * * *
高校生のころはよかった。スクリーンに映し出されたスライドを眺めながら、そう思う。やるべきことがわかりやすかった。テストで良い点をとればいい。それだけだ。そこに私の意志が介入する余地はない。(しいていえば文系か理系か、という選択肢を突き付けられたことはあったけれど、就職に有利だからという理由で親が理系を勧めたのでそうした)進路希望調査の大学名は、自分の偏差値に見合ったところで、地元から離れたところを三つ記入した。地元から離れようとしたのは、必要以上に私を気にかける親と会話するのに、いい加減疲れてきたからだった。
親が私を心配するのはわからなくもない。私はあまり自己主張をしないからだ。しかしそれも私からしてみれば仕方のない話で、おそらく、生まれついて私には感情というものがないのではないかと思う。もちろん、美味しいものを食べれば美味しいと感じるし、不快な音を聞けば耳を塞ぎたくなる。しかし、自主性を求められると、とたんに返答に困ってしまう。
たとえば、夕食が何がいいかと聞かれたとき。私は寿司が好きだし、ハンバーグも好きだし、親子丼も好きだ。しかし、寿司が出ようがハンバーグが出ようが、あるいはまったく別の八宝菜が出てこようが、私の気分は特段変わらない。要するに、何が食卓に出てこようが腹が満たされればいいのだ。けれどそう告げると、困ると言われる。普段の食事ならまだいいけれど、誕生日となれば、躍起になって私の要望を探ってくる。適当に答えたら今度は、食べたいものが出てきた喜びをアピールしなければならない。実際には嬉しくもなんともないにも関わらず。そういう日々にはもううんざりだった。
それで地元を出て独り暮らしを始めた。想像以上に快適な日々だった。誰も私の機嫌を気にかける者はいない。無表情で食事をしていても文句は言われない。
しかし授業は別だった。高校とは違って、自分で決めなければいけないことばかりだったのだ。授業を受ける前からそうで、必修科目とは別に選択科目、自由科目まであって、授業の取り方は無限だった。本来であれば、自分が進みたい進路や、興味がある分野をもとに取り方を決めればいい。しかし、私には自分の希望など何もないのだ。春学期半ばまでの予定表はオリエンテーションで教えてもらった先輩のアドバイス通りに組みつつ、さてこれからはどうしようと悩んでいたところに話しかけてきたのが、岩瀬柳だった。
食堂でいつも通りカレーを食べていると、隣に二人連れの男が座った。昼時の食堂は混むので、隣や向かいに他人が座るのはよくあることだ。(慣れてくると昼休みではなく二限か三限のタイミングで食事をとるというテクニックを使うのだが、一年生の私はまだ知らなかった)しかし、隣に座った他人が話しかけてきたのは初めてだった。
「なあ、白川さんっていつもカレー食ってるよな?」
「はあ……」
私はうろんげな視線を彼に向けた。知らない人だ。いや、知っているかもしれない――つまり、同級生のような気もする。しかし話したことはないはずだ。彼の向かいに座った男性も、目を丸くしていた。
「たしかに、そうですけど……なんで私のこと知ってるんですか? 私、話したことありましたっけ?」
「まあ、同期の紅一点は覚えるっしょ」
やはり同級生だったらしい。たしかに同じ学年で女子は私一人だ。私の学類は毎年女性の人数が極端に少ないらしい。理系の中でも生物学類なんかは女子が多いのにな、と先輩は嘆いていた。
「それで食堂にいるから観察してたらさ、いつもカレー食ってるじゃん。俺さ、白川さんがカレー以外食ってるの見たらラッキーデーって勝手に決めてたんだけど、そんな日なかったわ。カレー好きなの?」
「はあ……まあ、そんな感じです」
実際のことをいうと、カレーは食堂のグランドメニューの中でも比較的安く、かつ野菜がとれるからだった。定食でも生野菜がついてくるので栄養はとれるけれど、日替わりなので毎日選び直さなければいけない。一方でカレーは必ず毎日ある。悩まなくていい、というのは私にとって重要だ。
しかしそんなことを初対面の人間に説明する義理はないので、好きだから、という理由で流すことにした。
「女子一人ってさあ、なんか大変じゃない?」
「大変、じゃないですけど……」
「代返とかさ。あと、休講の情報なんか? 俺なんかはさ、早々にユーチと友達になれたから、情報共有できたけど――」
ユーチ、というところで斜め前の男を見ると、軽く頷き返された。つまり彼がユーチくんらしい。
私は頭の中で天秤にかけた。友人ができる煩わしさと、すべて友人に任せてついていけばいいという気楽さを。そうして口を開いた。
「確かに、授業の組み方とかはちょっと悩んでるかな」
「マジ? やっぱそうだと思ったんだよな。よかったら連絡先交換しようぜ。そうだ、ユーチ含めてグループチャットたてるのはどう?」
「何のグループ?」
ようやく、ユーチくんが喋った。私を疎んでいるわけではないようだ、と他人事のように分析する。おそらく、私に似たタイプ。友人関係が増えるのは好ましくもあり、面倒でもあるので、積極的にはなれない。しかし友人がグイグイ引っ張るので否応なく着いていかざるをえない。
「カレーグループでよくね? 俺もカレー好きだし。あ、そうだ、俺、岩瀬柳。ヤナってみんな呼ぶ。んで、こっちが――」
「田尻雄一。よろしく、お願いします」
「白川昴です。よろしく」
岩瀬柳と友人になったのは、想像以上の収穫だった。彼は別のグループチャットで得た情報をすべて横流ししてくれたので、私は自分で掲示板を見に行ったり、先輩に過去問をお願いする必要がなくなった。履修の計画も組んでいたので、それを真似ればよかった。彼についていけば、私の大学生活は万事、とまでは言わなくても、ほどほどには上手くいった。その一方で、私の予想とは裏腹に、彼は決してお節介な人間ではなかった。確かに親切で、よく気にかけてくれる。それから、いろんなことに目をやるので、ほかの人よりも気づきが多かった。私がカレーばかり食べているのに気づいたように。しかし本当のところ、彼の頭の中は何か重要なことで占められているようだった。だから、何かに気づいたとして、興味を持っても、表面的な答えを得られたら満足してしまうのだ。
彼の頭の中を占めている何か、というのを私は一度尋ねたことがあった。同級生の何人かで宅飲みをしていた、その終わりかけのことだった。彼は少し恥ずかしそうに、音楽だよ、と答えた。
「音楽?」
まだ寝ぼけていない数人が、興味を持ってこちらの会話に加わってきた。
「あー、そう……バンド。まあ、プロになるわけじゃないし? サークル活動だけだけど。でも、大学生の間だけって決めてるから……そしたらやっぱ、本気でやりたいじゃん?」
「マジか、柳って熱い男じゃん。ライブとかあんの?」
「あるよー、来月。よかったら来てよ」
行く、と私は頷いた。私の日常は講義と課題とバイトのみで構成されており、ライブの日が暇である可能性は高かった。
岩瀬柳が面倒じゃなかったのに対し、もう一人の、ユーチこと田尻雄一は非常に面倒な男だった。なんと、彼は私に好意を持ってしまったのだ。なんとも不思議なことである。こんな感情を表さない人間にどうして恋愛感情が抱けるんだろう。しかしまあ、彼は男子校の出身で、今まであまり異性と接してこなかったと聞くから、女性を見る目が養われていないのかもしれない。
彼は積極的にアプローチしてきた。頻繁にメッセージを送ってきたり、デートに誘ってきたりといったことだ。メッセージについては、苦手だから、あまり返せないかもしれない、返してもスタンプばかりかもしれない、とあらかじめ言っておいた。盛り上げるような会話というものが私は苦手なのだ。デートについては、明にデートと言われず、カラオケや食事に誘われただけなので、うまく断れず毎度行くことになった。別に行きたいわけではないけれど、行きたくないわけでもなく、田尻雄一に好意を持っているわけではないけれど、彼の好意を拒否する言い訳を考えるのは面倒で、気づいたら流されているのだった。そもそも自分は彼と付き合いたくないのか、それすらはっきりと断言できないのだ。私はそういう人間だった。
田尻雄一と一緒に岩瀬柳のライブを観に行くことになったのも、そういう流れだった。
『ヤナのライブ、来週末だよね』
『一緒に行かない?』
私と田尻雄一が一緒に現れたら、岩瀬柳は多少邪推するのではないかと思う。しかし、一緒には行きたくないと田尻雄一の誘いを断るのも不自然だった。まあいいか、と私は肯定的なスタンプを返した。なるようになる、だ。
当日、私と田尻雄一は駅で待ち合わせて一緒に会場に向かった。会場は混雑していて、私と田尻雄一はドリンクのカップを片手に所在なさげに佇んでいた。ネットで調べると、今日はサークルに所属している全バンドが出演するらしく、それらが皆友人を呼んでいるので、こうしてすし詰めになっているらしい。
定刻になり、サークルのリーダーのお決まりのような挨拶から、一つ目、二つ目、とバンドが登場しては去っていく。私はあくびが出そうなのをこらえていた。どのバンドも、上手いと思う。素人が聴いているからかもしれないけれど、素直にそう思う。けれど、上手い、ただそれだけだ。それで何か私の心が動くわけではない。
「柳のバンドって何番目だっけ」
囁くようにして田尻雄一に尋ねる。いい加減立ちっぱなしで足が疲れてきた。
「え、っと、六番目――あ、次じゃないかな」
そう言うとともに、舞台上に岩瀬柳が姿を表す。ああ、私と田尻雄一を見てどう思うんだろうなあ、勘違いされて応援されたら面倒だなあ、と思っていたけれど、彼は真剣な表情でマイクの位置を調整していて、こちらを見ることはなかった。ここに来て初めて私は、彼がギターボーカルというバンドの花形の立ち位置にいることを知った。
どのバンドも紹介なしで一曲目が始まる。岩瀬柳が目線でバンドメンバーに合図して、ドラマーがスティックを振り上げた。あ、始まる、と悠長に私は構えていた。
一音。
「――――」
岩瀬柳、の、いつもと違う、常よりも低い声が、私の鼓膜を揺らす。たったそれだけのことで、カッと体が熱くなる。スピーカーから流れ出る振動が直に心臓に届いているみたいだ。
これはなんだ?
私はいまなにを聴いている?
私はいまどうなっている?
これは、なんなんだ?
すこし掠れたその声が歌い上げているのが何なのか、私にはわからない。歌詞を聞き取る余裕なんてない。でも、きっとそう、恋の歌だ。歌声と、彼の切ない表情を見れば予想がつく。
ハア、と吐息をもらす。ずっと息を止めてしまっていた。呼吸を再開したのに、けれど苦しい。正しく息をすって、はくことがこんなに難しかっただろうか。自分の体が自分のものでないような感覚に陥る。
心臓がバクバクと音を立てているような気がする。燃えるように体が熱い。いつまでもこの歌を聴いていたい。いや、もう終わってほしい。恐ろしい。この歌が永遠に続かないということが、こんなにも悲しくて恐ろしい。それならばいっそ、もう終わらせてほしい。
「――――」
シャウト。思わず悲鳴をあげそうになった。彼の声は、呼吸を苦しくさせる。どうしてだろう? 私はどうしていま、叫びだしたくなっているんだろう。わあ、と大声をあげてしまいたい。何を伝えるためでもない。ただ、叫んでしまいたい。そうしたらこの身を支配している何かから、楽になれるような気がする。
私の目には、もう岩瀬柳以外の何も映っていなかった。彼は、ただひたすらに歌っている。私なんて目に入らないぐらい真剣に。
「――――。……ありがとうございました」
終わった。歌声の余韻を、ギィン、というギターの音色が断ち切る。彼が頭を下げると、拍手が起きる。彼の隣のギターの人が、バンドの紹介を始めた。岩瀬柳は、後ろに置いてある水を飲んでいる。
軽薄なおしゃべりは、私の耳には入ってこない。
これはなんだろう。どうして私はただの音の連なりに、体が痺れるほどの衝撃を感じたんだろう。こんなことは生まれて初めてだ。ただただ不思議だった。何も分からない。でも。
彼が、彼の歌が欲しい。
そう思った。
「白川さん」
名前を呼ばれて、そろそろと隣をみる。田尻雄一が、眉をひそめて私を見ていた。
「なんで、……泣いてるの?」
「泣いている? わたしが?」
頬に手をあてると、たしかに濡れていた。自分の目がどうして涙をこぼしているのか、私にもわからなかった。
あとがき
・筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。上記の作品は、12/7のために書き下ろされました。主催の神乃さん、ありがとうございました。他の方々の作品も素敵なものばかりなので、未読な方はぜひ読んでみてください。
・短編+短歌、という形に図らずもなりました。私の好きな本の1つ、加藤千恵さんの「真夜中の果物」はこの形で構成されている短編集です。短歌という31文字の世界を小説が広げてくれる、また小説の広い世界をぎゅっと短歌に閉じ込めている、この相互の関係性が素敵な作品です。興味があればぜひ。
・バンドものはもともと好きです。書いたのは初めてですが。元ネタとなった短歌は、2017年に詠んでいました。
・少し早いですが、メリークリスマス。
きえない
ドアを開く前から、なんとなく予感があった。だから、玄関先で抱き合う正樹と佳奈美を見た時に、驚きに身を支配されずに怒ることができた。まさかそんな、ではなく、やっぱりな、という気持ち。やっぱりコイツら、私を裏切っていたんだ。
でも、もしかしたら、ほっとした気持ちもあったかもしれない。ずっと陰でこそこそと動かれて、怒ればいいのかどうなのか、もやもやしていたものがこれではっきりした。
目があった正樹は、ヤバイという焦りを露わにして、慌てて佳奈美から離れた。たいして佳奈美は、予定調和のように落ち着いた表情だった。ずり下がったオフショルダーのニットを直す余裕すらあった。それはそうだろう。だって佳奈美は、あからさまに見せつけていたから。
「正樹、これって、そういうことだよね?」
「そういうこと、って?」
正樹は薄笑いを浮かべる。取り繕うみたいに。
「浮気でしょ」
「違うよ」
言い逃れできるとでも思ってるんだろうか。あまりにも馬鹿にされている。睨みつければ、正樹はメドゥーサと出くわしたみたいに目をそらした。失敬な。
「浮気だよ」
隣から佳奈美が口を出す。
「正樹くん、浮気してたんだよ」
「正樹とアンタが、でしょ」
佳奈美は悪びれずに頷く。
「うん。でも、そんなに怒らなくてもいいじゃん。正樹くんも、実花ちゃんのこと嫌いになったわけじゃないんだよ」
「嫌いになったわけじゃない? じゃあどういうこと。私よりアンタのことをより好きになったってだけこと?」
佳奈美は笑う。その笑顔が妙にムカついて、睨みつけた。
「ていうか、佳奈美はどうなの? 正樹が好きなの? それとも私を傷つけたいだけなの? どっち?」
私には、後者な気がしてならなかった。
正樹と出会ったのは大学の入学式の日で、佳奈美と初めて会ったのも同じ日だった。化学部は理系の割には女子が多い学部だったけれど、それでも全員の顔と名前をすぐに覚えられるぐらいには少なかった。
佳奈美を最初に見たとき、高校のときに気が合わなかった女の子に少し似ていて、仲良くなるのはよしておこうと決めた。
同じ部活だったその子は、男の子とのゴタゴタがあって部活にあまり集中しなくなったのだ。それについて口を出したら、「興味ないひとばっかりに好かれちゃって、あたしは大変なの」だとのたまった。そりゃ、その子は可愛かったから、本当のことなんだろうけど、それと部活って関係ないでしょ。私がモテないのを知っていて、当てつけで言ったとしか思えない。それで喧嘩別れして、その子は部活を辞めて、それきり。部内の子は私の味方をしてくれる人が多かったけど、友達と喧嘩することそのものに疲れてしまった。そういうタイプの子を相手にするのはもううんざりだ。そういうタイプって、つまり、ふわふわしてて、柔らかそうで、男の子に人気があるって自分でわかってる子。
私はというと、男女の友達も多いけれど、決して友達としか見られないタイプだった。だから、入学式で隣の席に座った正樹と仲良くなった時も、友達でしかないという心づもりだったし、まさか告白されるなんて思ってもみなかった。
なんで私なの、と聞いたとき、一緒にいて楽しいから、と正樹は言った。ちょっと照れた顔で、実花の特別になりたいと言われて、舞い上がってしまった。そのまま、うん、と頷いてできた初めての恋人は、当然のごとく友達とは違うことがたくさんあって、そういう日々は、思っていたより楽しかった。
綻びが生じ始めたのに気付いたのは、夏の終わりごろだった。正樹が行った、サークルの夏合宿を写真を一緒に眺めていたときに、ふと、知った顔を見つけた。
「あれ、これ、村中さんだよね? 村中佳奈美ちゃん」
「え、あ、うん」
五人ぐらいが写った写真で、仲がいいメンバーで撮ったのかなと思わせた。写真の中の彼女は、ピンク色のブラウスを着ていて、ふわふわした袖が、隣でピースをしている正樹にあたっている。
「そうだけど……。実花、佳奈美のこと覚えてたの?」
「そりゃ、同じ学部の女子ぐらい覚えてるよ」
「あー、そっか、まあ、この間紹介で入って来てさ。でも向こうは女子でこっちは男だし、佳奈美とはそんな話さないから。それよりバーベキューの写真があってさ、」
正樹の指がスマホの画面をスワイプする。ふんわりと笑う佳奈美の顔が、画面から消えた。
正樹の口から、サークルに佳奈美がいるという話を聞いたことはなかった。正樹のいう通り、わざわざ私に言うほどの関係じゃないのかもしれない。でも、慌てて他の話題に移したことが、かえって怪しく思えた。そんなに話さない男女が、触れ合うような距離で並んで写真を撮るだろうか? 佳奈美、なんて下の名前で呼ぶ?
考えれば考えるほど、怪しく思えてきた。付き合って数か月、正樹が男子校出身で女慣れしていないことは察していた。男好きしそうな佳奈美に迫られたら、ひょいと心が移ってもおかしくない。
盗られたくない、と強く思った。正樹が私の特別になったんだから、私だって正樹の特別じゃなきゃおかしい。他の女の子と仲良くなれたから乗り換えるなんて、裏切り行為だ。
しかし、浮気の疑惑に対して具体的な行動をとることができなかった。なんの証拠もないのに詰め寄ったら、それこそ関係性が破綻してしまう。もやもやした気持ちを抱えたまま日々を過ごしていると、正樹と佳奈美が二人で出かけていたという噂を耳にした。そんな話を聞くと、デートを断られた日が、すべて怪しく思えてくる。提出期限が近いレポートがあるとか、サークルの集まりとか、全部嘘なんじゃないかと。私に嘘をついて、二人で遊んでいるんじゃないかと。
実際にカマをかけてみたけれど、真偽のほどはわからなかった。上手く誤魔化されたのか、カマをかけたときは本当に用事があったのか、全くわからない。逆に、何でそんなこと聞くの、と尋ねられ、疑われていると感じた。私が疑っているって、疑われている。メンヘラみたいに思われるのが嫌で、それからは確信をつくような質問をすることができなかくなった。
でも、浮気してるのは確実。絶対に、そう。
教室で佳奈美を見かけると、つい睨んでしまうようになった。たまに視線が合う。すると彼女はにっこりと笑うのだ。挑発されている。そう感じた。だって、普通だったら、睨まれていたら、戸惑うとか、不安になるとか、あるはずだ。笑うなんて、睨まれる理由に心当たりがあるからだ。それでいて、挑発して笑ってくるのだ。
最低な女。
佳奈美のことは、そういう評価になった。
毎日疑心暗鬼にかられているうちに、正樹への感情も、よくわからなくなった。私を騙していることに怒りたい。でもそれが愛情から来ているのか、今となっては不明だ。夏頃は、嫉妬しているとはっきり答えられたのに。
もう解放されたい。そう思ったときに、二人の浮気現場に出くわしたのだった。
「実花ちゃん、正樹くんと別れちゃったんだってね」
ひとりで食堂で食べているところで、向かいに誰かが座ったのはわかった。面倒だったから顔をあげなかったのだけれど、話しかけられては仕方がない。
食事の手を止めて、佳奈美を見る。ゼミが長引いた後の食事で、昼食時間からはずれていたこともあって、周りに人はいないようだった。そういうときを狙ったのかもしれない。
「おかげさまでね。そういうアンタも、正樹と付き合わなかったみたいだけど」
私と別れてから、正樹が誰とも付き合っていないというのは聞いている。なんなら、佳奈美はサークルを辞めたとも。
「だってわたし、正樹くんのこと別に好きじゃないもん」
佳奈美はにっこりと笑う。
「それがあのときの質問に対する答え」
正樹のことが好きなのか。私を傷つけたいだけなのか。その問いに、あの時の佳奈美は「そんなの決まってるでしょ」としか答えなかった。今のが正しい答えだということは、つまり、私を傷つけたかったということだ。
「そんなに私が嫌い? そこまでアンタに何かした覚え、ないけど」
「逆だよ。わたし、実花ちゃんのこと好きなの」
恋愛的な意味で。
最後の言葉は、ギリギリ聞き取れる音量で囁かれた。
思考が止まった。逆って。恋愛的に、好き?
「入学式のあとのオリエンテーションで、無理矢理男の子に写真撮られそうになったときに、実花ちゃん、守ってくれたでしょ。撮られる側の気持ちがわかんないなんて、ダサいって。そのとき、好きって気持ちがわあって押し寄せてきて、胸がいっぱいになったの」
覚えは、ある。好きでもない男に告白されるなんて迷惑だ、という高校時代の言葉が、頭に残っていたからだ。好意を押し付けてくる男が、癪に触った。別に佳奈美のことを気にかけたわけではなかった。
「わたし、子供の頃から女の子しか好きになれなかったの。でもね、男の子にばっかり告白されて、女の子には嫌厭されて。大学でもそうなるのかなあって思ってたときに、実花ちゃんがキッパリ断ってくれて、すごく嬉しかった」
「私は別に、守るとか、そういうつもりじゃ……」
「わかってる。実花ちゃん、わたしのこと眼中になかったもんね。最初のころなんか、避けてたでしょ? 食事に誘ったのに、断られたりとかね。辛かったなあ」
それは、高校時代の失敗が頭にあったからだ。佳奈美のほうは仲良くなりたかったなんて、思いもよらなかった。食事を断ったことも、記憶にない。
「教室でね、たびたび実花ちゃんのこと見てたんだよ。綺麗だなあって。知らなかったでしょ? 一度も目が合ったことないもんね。……正樹くんと浮気するまで」
佳奈美がにっこりと笑った。教室で目が合ったときと、同じ笑顔。
「強く見つめてきてくれて、すっごく嬉しかった。感動したなあ。わたしなんて実花ちゃんの人生に一度も現れることができないと思ってたけど、ちょっと男の子にベタベタしただけで、いきなり主要人物に成り上がれた」
「……だから?」
「ん?」
「だから、正樹と浮気したっていうの? だから、他人の彼氏を奪ったって? 私に認知してほしいから? 私のこと好きだから?」
それって。
「それって、好きの押し付けじゃん。好きだから何をしてもいいなんて有り得ない。さっき、男の子にばっかり告白されて辛かったって言ったけど、アンタだって同じことしてるじゃん。ううん、アンタのほうがひどい。アンタがしたことで、私と正樹は傷ついた。本当にひどいことしたって、わかってる?」
「うん」
あっさりと頷いた。その様子に、またカッと頭に血が上る。でも声になる前に、佳奈美が言葉を続けた。
「わたし、ひどいことしたよね。だからわたしのこと嫌っていいよ。憎んでいい。ううん、私を世界でいちばん嫌いになって」
佳奈美は、笑っている。その瞳が、真っ黒なことにいま初めて気づいた。覗き込んでいると、どこまでも落ちていきそうな黒。
「実花ちゃんがわたしのこと好きになってくれるなんて、最初から思ってないもん」
ふわふわして、柔らかそうな女? どうしてそんなことを、思えたんだろう。こんなにも棘でいっぱいで、自分の皮膚さえ突き刺してしまうような人間を。
「……佳奈美は、私がまた男と付き合ったら、そいつも奪うの?」
「うん。そうして、佳奈美ちゃんがわたしのこともっと憎んでくれるなら」
ゾクリと震えが走った。思わず立ち上がると、佳奈美は不思議そうに首をかしげた。
「もう食べないの? じゃあ、残り貰っていい?」
「……どうぞ。冷たくなっているので、いいのなら」
「ありがとう。実花ちゃん」
鞄を持って、立ち去る。カツカツとヒールの冷たい音が響く一方で、頭の中は煮えたぎるようだった。絶対に、佳奈美の言う通りにはさせない。また恋人をつくって、佳奈美がちょっかいを出してきても鼻で笑って、二人で幸せになってやる。
そうだ、それがいい。正樹のことは忘れて、新しい恋人をつくろう。そう決めて、気になる人はいないかと頭の中のフォルダを漁るけれども、どうしても、脳裏に浮かぶのは一人の顔だけだった。
後書き。
コンセプトは「奪うことでしか繋がれない」でした。
書いているうちに追加されたのは「男の子にモテる容姿と性格のレズビアンと、女の子にモテるヘテロ」でした。まぁもうヘテロじゃないですけど…。
お手軽!簡単!「はじめて」キット
簡単キットだというので買ってやってみた。どうにもまったく簡単だとは思えない。イラスト付きの説明書がついているものの、簡単だというよりは簡潔すぎるといったほうが正しい。試しに動かしてみたが、どうやっても五分ぐらい経ったら主人公が死んでしまう。友人に相談したら、初期設定のままなのが駄目なのだと笑われた。
「でも簡単っていうんだから、いい感じに設定されてるんじゃないの?」
愚痴を言うと、あっさりと頷かれた。
「そりゃね。五分持ったんでしょ?」
「うん」
「自力で作ったら、五分なんてもたないよ。とりあえず貸してみなよ。五十分ぐらいには延ばしてあげるから」
「十倍じゃん。ほんとにできるの?」
「まあ見てなって」
世界設定と、主人公と、その周りのキャラクターたちを友人が弄繰り回していく。並行世界とか、金髪の幼馴染とか、たまに耳鳴りがするとか、何の意味があるかわからない情報が付加されるたびに、理屈はわからないけれど世界の寿命は延びていった。
指をさして尋ねてみる。
「この、並行世界っていうのは何の意味があるの?」
「平行世界があるとさ、一つの世界で主人公が死んでも全体としてみたときに世界が続いたりするんだよな。冗長性ってやつ」
「ええとじゃあ、両親が海外出張に行くっていうのは?」
「知らん。でもそれ入れると寿命が延びる。……っと、ほら、一時間にはなったぞ」
友人はキットを放り投げてきた。慌てて受け取る。
「いろいろパラメータ変えたり、設定増やしたりしてみろよ。それでまた寿命が延びるから。こういうキットなら……目標は一日だな。それだけあればエンディングまで辿り着けるからさ」
「へえ。一日ね。なかなか長いなあ」
「でも一回そこまで辿り着いたらさ、ちょっとパラメータ変えるだけでエンディングを変えたりできるし、楽しみ方が増えるからさ。まあ、試してみなよ」
「……この、耳鳴りっていう設定はなに?」
友人がキットを覗き込む。
「耳鳴り? ああ、主人公のね。なくてもいいんだけどさ、耳鳴りとか眩暈とかがあると、それを予兆として事件が起こりやすいから、ストーリーのバリエーションが増えるんだよ」
「ふうん」
試しに、その耳鳴りのパラメータを変えてみた。動かしてみると、十秒で主人公が死んでしまう。今までにない最速の終了に、呆然としてしまった。隣で友人が爆笑している。
「ばか、その数値はでかすぎだよ。そんなにひどい耳鳴りが響いたら、人間は死んじゃうから」
「そうなの? 面倒だなあ」
「可哀相にな、お前がテキトーに数値を入れたせいで五百億人ぐらい一気に死んだぞ」
「まあたかが五百億だし……」
そう言いながらキットを再稼働した。いろいろエンディングを見てみたいけど、それまでトライアンドエラーを行う根気が持つかどうかが問題だ。お蔵入りになったらそれこそ本当に五百億人が可哀相だな、と益体もないことを考えた。
※お題は「耳鳴り」「マルチエンディング」「世界五分前仮説」でした。
とおくとおくへ
「生まれてきてよかったって思ったことある?」
さきちゃんは窓から外を見たまま、そう尋ねた。囁くような、呟くような声。鈍行列車のガタゴトという走行音に消されない最低限の音量だった。
「……あるよ」
私は正直に答える。すこし驚いたように、さきちゃんは私を見た。
「いつ?」
「好きな人に、名前を呼ばれたとき」
芦本、ジュース全員分買ってきてくれる? 金は出すからさ。他愛もない事務的な会話だったけれど、彼が私の名前を覚えていてくれたという事実に舞い上がった。彼は財布から二千円札を取り出して私に渡してくれた。珍しいですね、二千円札なんて。私はそう言ったけれど、彼は首をかしげて、ああ、うーん、確かに? と疑問形で返答した。コンビニのレジで、私は手持ちの千円札で会計を行い、貰った二千円札は財布の奥に大切にしまい込んだ。
そういった思い出を一通り話すと、さきちゃんは微笑んでいいじゃん、と言ってくれた。
「いいじゃん。すごくいい思い出だよ。死ぬの、やめたら?」
「そうだね……」
彼女の言葉が冗談だとわかっているから、私も曖昧に返す。
いや、本当は、どこからが冗談でどこからが本気なのか、もうわかっていない。死にたい話も、心中の話も。終電もなくなった駅前で、ひとり佇んでいた彼女を見つけたときから、夢を見ているような気もする。
「好きな人がいるなら、死ぬなんてよしたほうがいいよ」
「もう、好きじゃないの」
「好きじゃないのに、まだ二千円札を持ってるの?」
私は驚いてさきちゃんを見つめた。
「わたし、まだ財布にあるって言った?」
「さあ……言わなかった?」
言わなかったように思う。未練がましく覚えている思い出の品を持っているというのは、おかしな話ではないから、見当をつけたのだろう。そう自分を納得させたけれど、意味ありげに微笑むさきちゃんは、私の記憶を覗いたようにも思えてぞっとしない。
車掌の放送がかかった。切符の駅名を確認して、さきちゃんと頷く。立ち上がると、車内には私たち以外には誰もいないことがわかった。
「ずいぶん遠くまで来ちゃったね」
そう囁きあって、電車を降りる。駅を出た瞬間、潮の匂いがした。
さきちゃんが、アイスクリームを食べたい、と言い出した。海を思い出したら食べたくなってきたのだと。そう言われると、私も旅行気分になって食べたくなってきた。可能ならば牛乳たっぷりのソフトクリームがいい。しかし田舎の駅らしく、周りにはケーキショップどころか店自体が少ない。散々歩き回ってカフェを見つけ、いざ入ろうとしてようやく、手持ちの金はここまで来るのに使い切ったことを思い出した。
「無理だよ、さきちゃん」
「どうして?」
「だって、わたしのお金、さっきの切符代で最後だったんだもん。さきちゃんだってそうでしょ?」
さきちゃんは微笑んで首をふる。
「まだあるでしょう?」
あ。と私は呟いた。にせんえん。
さきちゃんがドアを開ける。カランコロン、とベルが軽やかな音を立てた。
「アイスクリームって食べられますか?」
さきちゃんの問いに、店員が申し訳なさそうな顔をつくる。
「すみません、夏場だったらご用意があるんですが。ああ、でも」
「でも?」
店員の勧めに従って、私たちはメロンフロートを頼んだ。予想以上のサイズがあったそれは、大きさ通りの値段がする。このお金を支払ってしまったらもう何も残らないだろう。それでも後悔はなかった。
メロンソーダに浮いた白いアイスを、さきちゃんは宝物のように掬い取る。そんなに大事にしなくても、きっとすぐに溶けていってしまうのに。
それでも、私たちはこれが最後の晩餐になることを知っていた。
「わたし、たぶん、二千円が使える女になりたかったの。こういう、どうでもいい飲み物とかお菓子に」
さきちゃんがくすりと笑う。
「早く食べなよ。美味しいよ」
「うん」
頷いて、アイスを口に運ぶ。思ったよりも安っぽい味が広がった。これから海に飛び込むなんて嘘みたいな昼さがりだった。
公衆電話保護運動
公衆電話を探そう、と言い出したのはヒデだった。特にこれといった理由がある飲み会ではなかったけれど、一次会から店を移して二次会へと続き、みんなひどく酔っぱらっていた。学部の授業の話から、昨日作ったカレーライスにいきなり話がとんでも、誰も違和感を持たずに相槌を打っていたぐらいだ。公衆電話の話はそういう時にふってわいてでたのだった。駅前の公衆電話が消えたよね、という話を誰がしたのかはもう覚えていない。ヒデはそれにひどく怒りを示した。
「公衆電話が排斥されてるんだよ、よくないよ、この流れはね。この排斥運動はね、今に俺たち民衆にも及ぶよ。その前に公衆電話を救わなきゃ」
あたしは拍手をした。ブラヴァ、と叫びもした。とても迷惑な客だったことは間違いない。
「救いに行こう、公衆電話を」
「でもどうやって?」
ユキがそう尋ねる。冷静にツッコミを入れた彼女が、実際はそう取り繕って見えているだけだというのはだいぶ前からはっきりしていた。
「使うんだよ。みんな使わないから要らないんだろって言われるわけ。使ってますよ、需要があるんですよ、って言えば、撤去もできないだろ」
公衆電話を救おう。あたしたちはそう口ずさみながら店を出た。外は湿っぽいにおいがして、遠くで雷が鳴っているのも聞こえた。雨が降りそうだね、と誰かが呟いたけれど、家に帰ろうと言い出す人はいなかった。それよりももっと大事なことが、今は差し迫っているのだ。
夜の街を目的地も決めずにさ迷い歩いた。排斥されている、という割には、公衆電話は簡単に見つかった。そのころにはしとしとと雨が降り出していたので、3人で無理矢理電話BOXに押し入った。
電話をかけたのは言い出しっぺのヒデだった。覚えている番号はこれしかない、と言って、実家のダイヤルを回した。深夜0時ころ、誰も出ない可能性があったけれど、何度か呼び出し音が鳴った後に、無事誰かが受話器を取ったらしかった。ヒデは二言三言会話を交わすと、首をひねりながら受話器を置いた。
「ねえ、出たの」
「誰が出たの? 12時回ってるんだけど、ヒデのうち緩すぎない?」
「姉貴だよ。でもなんかなー、全然話通じなくて」
ヒデは酔いが醒めたかのように真面目な顔に疑問符を浮かべていた。ヒデが酔ってるからでしょ、お姉ちゃんのせいにするな、と茶々を入れる。
「イヤ、マジでバスとかなんとか」
「聞き間違いじゃない?」
そう言ってあたしたちは三次会の話題を出した。家で飲み直すうちにヒデも含めみんな公衆電話保護運動のことを忘れ、サークルの話で盛り上がったのちに気絶するように眠りについた。
後から聞いた話だけれど、その夜お姉さんは帰りのバスが事故に巻き込まれ、意識不明の重体になっていたそうだ。酔っぱらって携帯の確認を忘れていたヒデは散々に絞られたらしい。病院で生死をさ迷っていたお姉さんが自宅にかかってきた電話をとれるはずがない。
「マジのとこ、けっこう怪しかったらしいんだよね。ギリギリのところで戻ってこれたのは、俺の電話のおかげじゃない?」
ヒデはそう言って胸を張るけれど、お姉さんに電話の記憶はないらしい。そしてヒデ自身も、実際に何を話したのかは翌日の頭痛と代わりに失っている。本当にお姉さんと話したのか、得体のしれないものと話したんじゃないかともあたしは疑ってるけど、確かめる方法はなくて疑問は宙に浮いたままだ。しいていえば、ひどく酔っぱらったときは家で飲み直すことに仲間内決めたことだけが、事実として存在している。
※お題は「臨死」「公衆電話」「遠雷」を使用しました。