きえない

 ドアを開く前から、なんとなく予感があった。だから、玄関先で抱き合う正樹と佳奈美を見た時に、驚きに身を支配されずに怒ることができた。まさかそんな、ではなく、やっぱりな、という気持ち。やっぱりコイツら、私を裏切っていたんだ。

 でも、もしかしたら、ほっとした気持ちもあったかもしれない。ずっと陰でこそこそと動かれて、怒ればいいのかどうなのか、もやもやしていたものがこれではっきりした。

 目があった正樹は、ヤバイという焦りを露わにして、慌てて佳奈美から離れた。たいして佳奈美は、予定調和のように落ち着いた表情だった。ずり下がったオフショルダーのニットを直す余裕すらあった。それはそうだろう。だって佳奈美は、あからさまに見せつけていたから。

「正樹、これって、そういうことだよね?」

「そういうこと、って?」

 正樹は薄笑いを浮かべる。取り繕うみたいに。

「浮気でしょ」

「違うよ」

 言い逃れできるとでも思ってるんだろうか。あまりにも馬鹿にされている。睨みつければ、正樹はメドゥーサと出くわしたみたいに目をそらした。失敬な。

「浮気だよ」

 隣から佳奈美が口を出す。

「正樹くん、浮気してたんだよ」

「正樹とアンタが、でしょ」

 佳奈美は悪びれずに頷く。

「うん。でも、そんなに怒らなくてもいいじゃん。正樹くんも、実花ちゃんのこと嫌いになったわけじゃないんだよ」

「嫌いになったわけじゃない? じゃあどういうこと。私よりアンタのことをより好きになったってだけこと?」

 佳奈美は笑う。その笑顔が妙にムカついて、睨みつけた。

「ていうか、佳奈美はどうなの? 正樹が好きなの? それとも私を傷つけたいだけなの? どっち?」

 私には、後者な気がしてならなかった。



 正樹と出会ったのは大学の入学式の日で、佳奈美と初めて会ったのも同じ日だった。化学部は理系の割には女子が多い学部だったけれど、それでも全員の顔と名前をすぐに覚えられるぐらいには少なかった。

 佳奈美を最初に見たとき、高校のときに気が合わなかった女の子に少し似ていて、仲良くなるのはよしておこうと決めた。

 同じ部活だったその子は、男の子とのゴタゴタがあって部活にあまり集中しなくなったのだ。それについて口を出したら、「興味ないひとばっかりに好かれちゃって、あたしは大変なの」だとのたまった。そりゃ、その子は可愛かったから、本当のことなんだろうけど、それと部活って関係ないでしょ。私がモテないのを知っていて、当てつけで言ったとしか思えない。それで喧嘩別れして、その子は部活を辞めて、それきり。部内の子は私の味方をしてくれる人が多かったけど、友達と喧嘩することそのものに疲れてしまった。そういうタイプの子を相手にするのはもううんざりだ。そういうタイプって、つまり、ふわふわしてて、柔らかそうで、男の子に人気があるって自分でわかってる子。

 私はというと、男女の友達も多いけれど、決して友達としか見られないタイプだった。だから、入学式で隣の席に座った正樹と仲良くなった時も、友達でしかないという心づもりだったし、まさか告白されるなんて思ってもみなかった。

 なんで私なの、と聞いたとき、一緒にいて楽しいから、と正樹は言った。ちょっと照れた顔で、実花の特別になりたいと言われて、舞い上がってしまった。そのまま、うん、と頷いてできた初めての恋人は、当然のごとく友達とは違うことがたくさんあって、そういう日々は、思っていたより楽しかった。

 綻びが生じ始めたのに気付いたのは、夏の終わりごろだった。正樹が行った、サークルの夏合宿を写真を一緒に眺めていたときに、ふと、知った顔を見つけた。

「あれ、これ、村中さんだよね? 村中佳奈美ちゃん」

「え、あ、うん」

 五人ぐらいが写った写真で、仲がいいメンバーで撮ったのかなと思わせた。写真の中の彼女は、ピンク色のブラウスを着ていて、ふわふわした袖が、隣でピースをしている正樹にあたっている。

「そうだけど……。実花、佳奈美のこと覚えてたの?」

「そりゃ、同じ学部の女子ぐらい覚えてるよ」

「あー、そっか、まあ、この間紹介で入って来てさ。でも向こうは女子でこっちは男だし、佳奈美とはそんな話さないから。それよりバーベキューの写真があってさ、」

 正樹の指がスマホの画面をスワイプする。ふんわりと笑う佳奈美の顔が、画面から消えた。

 正樹の口から、サークルに佳奈美がいるという話を聞いたことはなかった。正樹のいう通り、わざわざ私に言うほどの関係じゃないのかもしれない。でも、慌てて他の話題に移したことが、かえって怪しく思えた。そんなに話さない男女が、触れ合うような距離で並んで写真を撮るだろうか? 佳奈美、なんて下の名前で呼ぶ?

 考えれば考えるほど、怪しく思えてきた。付き合って数か月、正樹が男子校出身で女慣れしていないことは察していた。男好きしそうな佳奈美に迫られたら、ひょいと心が移ってもおかしくない。

 盗られたくない、と強く思った。正樹が私の特別になったんだから、私だって正樹の特別じゃなきゃおかしい。他の女の子と仲良くなれたから乗り換えるなんて、裏切り行為だ。

 しかし、浮気の疑惑に対して具体的な行動をとることができなかった。なんの証拠もないのに詰め寄ったら、それこそ関係性が破綻してしまう。もやもやした気持ちを抱えたまま日々を過ごしていると、正樹と佳奈美が二人で出かけていたという噂を耳にした。そんな話を聞くと、デートを断られた日が、すべて怪しく思えてくる。提出期限が近いレポートがあるとか、サークルの集まりとか、全部嘘なんじゃないかと。私に嘘をついて、二人で遊んでいるんじゃないかと。

 実際にカマをかけてみたけれど、真偽のほどはわからなかった。上手く誤魔化されたのか、カマをかけたときは本当に用事があったのか、全くわからない。逆に、何でそんなこと聞くの、と尋ねられ、疑われていると感じた。私が疑っているって、疑われている。メンヘラみたいに思われるのが嫌で、それからは確信をつくような質問をすることができなかくなった。

 でも、浮気してるのは確実。絶対に、そう。

 教室で佳奈美を見かけると、つい睨んでしまうようになった。たまに視線が合う。すると彼女はにっこりと笑うのだ。挑発されている。そう感じた。だって、普通だったら、睨まれていたら、戸惑うとか、不安になるとか、あるはずだ。笑うなんて、睨まれる理由に心当たりがあるからだ。それでいて、挑発して笑ってくるのだ。

 最低な女。

 佳奈美のことは、そういう評価になった。

 毎日疑心暗鬼にかられているうちに、正樹への感情も、よくわからなくなった。私を騙していることに怒りたい。でもそれが愛情から来ているのか、今となっては不明だ。夏頃は、嫉妬しているとはっきり答えられたのに。

 もう解放されたい。そう思ったときに、二人の浮気現場に出くわしたのだった。



「実花ちゃん、正樹くんと別れちゃったんだってね」

 ひとりで食堂で食べているところで、向かいに誰かが座ったのはわかった。面倒だったから顔をあげなかったのだけれど、話しかけられては仕方がない。

 食事の手を止めて、佳奈美を見る。ゼミが長引いた後の食事で、昼食時間からはずれていたこともあって、周りに人はいないようだった。そういうときを狙ったのかもしれない。

「おかげさまでね。そういうアンタも、正樹と付き合わなかったみたいだけど」

 私と別れてから、正樹が誰とも付き合っていないというのは聞いている。なんなら、佳奈美はサークルを辞めたとも。

「だってわたし、正樹くんのこと別に好きじゃないもん」

 佳奈美はにっこりと笑う。

「それがあのときの質問に対する答え」

 正樹のことが好きなのか。私を傷つけたいだけなのか。その問いに、あの時の佳奈美は「そんなの決まってるでしょ」としか答えなかった。今のが正しい答えだということは、つまり、私を傷つけたかったということだ。

「そんなに私が嫌い? そこまでアンタに何かした覚え、ないけど」

「逆だよ。わたし、実花ちゃんのこと好きなの」

 恋愛的な意味で。

 最後の言葉は、ギリギリ聞き取れる音量で囁かれた。

 思考が止まった。逆って。恋愛的に、好き?

「入学式のあとのオリエンテーションで、無理矢理男の子に写真撮られそうになったときに、実花ちゃん、守ってくれたでしょ。撮られる側の気持ちがわかんないなんて、ダサいって。そのとき、好きって気持ちがわあって押し寄せてきて、胸がいっぱいになったの」

 覚えは、ある。好きでもない男に告白されるなんて迷惑だ、という高校時代の言葉が、頭に残っていたからだ。好意を押し付けてくる男が、癪に触った。別に佳奈美のことを気にかけたわけではなかった。

「わたし、子供の頃から女の子しか好きになれなかったの。でもね、男の子にばっかり告白されて、女の子には嫌厭されて。大学でもそうなるのかなあって思ってたときに、実花ちゃんがキッパリ断ってくれて、すごく嬉しかった」

「私は別に、守るとか、そういうつもりじゃ……」

「わかってる。実花ちゃん、わたしのこと眼中になかったもんね。最初のころなんか、避けてたでしょ? 食事に誘ったのに、断られたりとかね。辛かったなあ」

 それは、高校時代の失敗が頭にあったからだ。佳奈美のほうは仲良くなりたかったなんて、思いもよらなかった。食事を断ったことも、記憶にない。

「教室でね、たびたび実花ちゃんのこと見てたんだよ。綺麗だなあって。知らなかったでしょ? 一度も目が合ったことないもんね。……正樹くんと浮気するまで」

 佳奈美がにっこりと笑った。教室で目が合ったときと、同じ笑顔。

「強く見つめてきてくれて、すっごく嬉しかった。感動したなあ。わたしなんて実花ちゃんの人生に一度も現れることができないと思ってたけど、ちょっと男の子にベタベタしただけで、いきなり主要人物に成り上がれた」

「……だから?」

「ん?」

「だから、正樹と浮気したっていうの? だから、他人の彼氏を奪ったって? 私に認知してほしいから? 私のこと好きだから?」

 それって。

「それって、好きの押し付けじゃん。好きだから何をしてもいいなんて有り得ない。さっき、男の子にばっかり告白されて辛かったって言ったけど、アンタだって同じことしてるじゃん。ううん、アンタのほうがひどい。アンタがしたことで、私と正樹は傷ついた。本当にひどいことしたって、わかってる?」

「うん」

 あっさりと頷いた。その様子に、またカッと頭に血が上る。でも声になる前に、佳奈美が言葉を続けた。

「わたし、ひどいことしたよね。だからわたしのこと嫌っていいよ。憎んでいい。ううん、私を世界でいちばん嫌いになって」

 佳奈美は、笑っている。その瞳が、真っ黒なことにいま初めて気づいた。覗き込んでいると、どこまでも落ちていきそうな黒。

「実花ちゃんがわたしのこと好きになってくれるなんて、最初から思ってないもん」

 ふわふわして、柔らかそうな女? どうしてそんなことを、思えたんだろう。こんなにも棘でいっぱいで、自分の皮膚さえ突き刺してしまうような人間を。

「……佳奈美は、私がまた男と付き合ったら、そいつも奪うの?」

「うん。そうして、佳奈美ちゃんがわたしのこともっと憎んでくれるなら」

 ゾクリと震えが走った。思わず立ち上がると、佳奈美は不思議そうに首をかしげた。

「もう食べないの? じゃあ、残り貰っていい?」

「……どうぞ。冷たくなっているので、いいのなら」

「ありがとう。実花ちゃん」

 鞄を持って、立ち去る。カツカツとヒールの冷たい音が響く一方で、頭の中は煮えたぎるようだった。絶対に、佳奈美の言う通りにはさせない。また恋人をつくって、佳奈美がちょっかいを出してきても鼻で笑って、二人で幸せになってやる。

 そうだ、それがいい。正樹のことは忘れて、新しい恋人をつくろう。そう決めて、気になる人はいないかと頭の中のフォルダを漁るけれども、どうしても、脳裏に浮かぶのは一人の顔だけだった。

 

後書き。

コンセプトは「奪うことでしか繋がれない」でした。

書いているうちに追加されたのは「男の子にモテる容姿と性格のレズビアンと、女の子にモテるヘテロ」でした。まぁもうヘテロじゃないですけど…。