新生

君だけが

君の掠れた低い声だけが

私を連れ去っていく

 

 * * * * *

 

 高校生のころはよかった。スクリーンに映し出されたスライドを眺めながら、そう思う。やるべきことがわかりやすかった。テストで良い点をとればいい。それだけだ。そこに私の意志が介入する余地はない。(しいていえば文系か理系か、という選択肢を突き付けられたことはあったけれど、就職に有利だからという理由で親が理系を勧めたのでそうした)進路希望調査の大学名は、自分の偏差値に見合ったところで、地元から離れたところを三つ記入した。地元から離れようとしたのは、必要以上に私を気にかける親と会話するのに、いい加減疲れてきたからだった。

 親が私を心配するのはわからなくもない。私はあまり自己主張をしないからだ。しかしそれも私からしてみれば仕方のない話で、おそらく、生まれついて私には感情というものがないのではないかと思う。もちろん、美味しいものを食べれば美味しいと感じるし、不快な音を聞けば耳を塞ぎたくなる。しかし、自主性を求められると、とたんに返答に困ってしまう。

 たとえば、夕食が何がいいかと聞かれたとき。私は寿司が好きだし、ハンバーグも好きだし、親子丼も好きだ。しかし、寿司が出ようがハンバーグが出ようが、あるいはまったく別の八宝菜が出てこようが、私の気分は特段変わらない。要するに、何が食卓に出てこようが腹が満たされればいいのだ。けれどそう告げると、困ると言われる。普段の食事ならまだいいけれど、誕生日となれば、躍起になって私の要望を探ってくる。適当に答えたら今度は、食べたいものが出てきた喜びをアピールしなければならない。実際には嬉しくもなんともないにも関わらず。そういう日々にはもううんざりだった。

 それで地元を出て独り暮らしを始めた。想像以上に快適な日々だった。誰も私の機嫌を気にかける者はいない。無表情で食事をしていても文句は言われない。

 しかし授業は別だった。高校とは違って、自分で決めなければいけないことばかりだったのだ。授業を受ける前からそうで、必修科目とは別に選択科目、自由科目まであって、授業の取り方は無限だった。本来であれば、自分が進みたい進路や、興味がある分野をもとに取り方を決めればいい。しかし、私には自分の希望など何もないのだ。春学期半ばまでの予定表はオリエンテーションで教えてもらった先輩のアドバイス通りに組みつつ、さてこれからはどうしようと悩んでいたところに話しかけてきたのが、岩瀬柳だった。

 食堂でいつも通りカレーを食べていると、隣に二人連れの男が座った。昼時の食堂は混むので、隣や向かいに他人が座るのはよくあることだ。(慣れてくると昼休みではなく二限か三限のタイミングで食事をとるというテクニックを使うのだが、一年生の私はまだ知らなかった)しかし、隣に座った他人が話しかけてきたのは初めてだった。

「なあ、白川さんっていつもカレー食ってるよな?」

「はあ……」

 私はうろんげな視線を彼に向けた。知らない人だ。いや、知っているかもしれない――つまり、同級生のような気もする。しかし話したことはないはずだ。彼の向かいに座った男性も、目を丸くしていた。

「たしかに、そうですけど……なんで私のこと知ってるんですか? 私、話したことありましたっけ?」

「まあ、同期の紅一点は覚えるっしょ」

 やはり同級生だったらしい。たしかに同じ学年で女子は私一人だ。私の学類は毎年女性の人数が極端に少ないらしい。理系の中でも生物学類なんかは女子が多いのにな、と先輩は嘆いていた。

「それで食堂にいるから観察してたらさ、いつもカレー食ってるじゃん。俺さ、白川さんがカレー以外食ってるの見たらラッキーデーって勝手に決めてたんだけど、そんな日なかったわ。カレー好きなの?」

「はあ……まあ、そんな感じです」

 実際のことをいうと、カレーは食堂のグランドメニューの中でも比較的安く、かつ野菜がとれるからだった。定食でも生野菜がついてくるので栄養はとれるけれど、日替わりなので毎日選び直さなければいけない。一方でカレーは必ず毎日ある。悩まなくていい、というのは私にとって重要だ。

 しかしそんなことを初対面の人間に説明する義理はないので、好きだから、という理由で流すことにした。

「女子一人ってさあ、なんか大変じゃない?」

「大変、じゃないですけど……」

「代返とかさ。あと、休講の情報なんか? 俺なんかはさ、早々にユーチと友達になれたから、情報共有できたけど――」

 ユーチ、というところで斜め前の男を見ると、軽く頷き返された。つまり彼がユーチくんらしい。

 私は頭の中で天秤にかけた。友人ができる煩わしさと、すべて友人に任せてついていけばいいという気楽さを。そうして口を開いた。

「確かに、授業の組み方とかはちょっと悩んでるかな」

「マジ? やっぱそうだと思ったんだよな。よかったら連絡先交換しようぜ。そうだ、ユーチ含めてグループチャットたてるのはどう?」

「何のグループ?」

 ようやく、ユーチくんが喋った。私を疎んでいるわけではないようだ、と他人事のように分析する。おそらく、私に似たタイプ。友人関係が増えるのは好ましくもあり、面倒でもあるので、積極的にはなれない。しかし友人がグイグイ引っ張るので否応なく着いていかざるをえない。

「カレーグループでよくね? 俺もカレー好きだし。あ、そうだ、俺、岩瀬柳。ヤナってみんな呼ぶ。んで、こっちが――」

「田尻雄一。よろしく、お願いします」

「白川昴です。よろしく」

 岩瀬柳と友人になったのは、想像以上の収穫だった。彼は別のグループチャットで得た情報をすべて横流ししてくれたので、私は自分で掲示板を見に行ったり、先輩に過去問をお願いする必要がなくなった。履修の計画も組んでいたので、それを真似ればよかった。彼についていけば、私の大学生活は万事、とまでは言わなくても、ほどほどには上手くいった。その一方で、私の予想とは裏腹に、彼は決してお節介な人間ではなかった。確かに親切で、よく気にかけてくれる。それから、いろんなことに目をやるので、ほかの人よりも気づきが多かった。私がカレーばかり食べているのに気づいたように。しかし本当のところ、彼の頭の中は何か重要なことで占められているようだった。だから、何かに気づいたとして、興味を持っても、表面的な答えを得られたら満足してしまうのだ。

 彼の頭の中を占めている何か、というのを私は一度尋ねたことがあった。同級生の何人かで宅飲みをしていた、その終わりかけのことだった。彼は少し恥ずかしそうに、音楽だよ、と答えた。

「音楽?」

 まだ寝ぼけていない数人が、興味を持ってこちらの会話に加わってきた。

「あー、そう……バンド。まあ、プロになるわけじゃないし? サークル活動だけだけど。でも、大学生の間だけって決めてるから……そしたらやっぱ、本気でやりたいじゃん?」

「マジか、柳って熱い男じゃん。ライブとかあんの?」

「あるよー、来月。よかったら来てよ」

 行く、と私は頷いた。私の日常は講義と課題とバイトのみで構成されており、ライブの日が暇である可能性は高かった。

 岩瀬柳が面倒じゃなかったのに対し、もう一人の、ユーチこと田尻雄一は非常に面倒な男だった。なんと、彼は私に好意を持ってしまったのだ。なんとも不思議なことである。こんな感情を表さない人間にどうして恋愛感情が抱けるんだろう。しかしまあ、彼は男子校の出身で、今まであまり異性と接してこなかったと聞くから、女性を見る目が養われていないのかもしれない。

 彼は積極的にアプローチしてきた。頻繁にメッセージを送ってきたり、デートに誘ってきたりといったことだ。メッセージについては、苦手だから、あまり返せないかもしれない、返してもスタンプばかりかもしれない、とあらかじめ言っておいた。盛り上げるような会話というものが私は苦手なのだ。デートについては、明にデートと言われず、カラオケや食事に誘われただけなので、うまく断れず毎度行くことになった。別に行きたいわけではないけれど、行きたくないわけでもなく、田尻雄一に好意を持っているわけではないけれど、彼の好意を拒否する言い訳を考えるのは面倒で、気づいたら流されているのだった。そもそも自分は彼と付き合いたくないのか、それすらはっきりと断言できないのだ。私はそういう人間だった。

 田尻雄一と一緒に岩瀬柳のライブを観に行くことになったのも、そういう流れだった。

『ヤナのライブ、来週末だよね』

『一緒に行かない?』

 私と田尻雄一が一緒に現れたら、岩瀬柳は多少邪推するのではないかと思う。しかし、一緒には行きたくないと田尻雄一の誘いを断るのも不自然だった。まあいいか、と私は肯定的なスタンプを返した。なるようになる、だ。

 当日、私と田尻雄一は駅で待ち合わせて一緒に会場に向かった。会場は混雑していて、私と田尻雄一はドリンクのカップを片手に所在なさげに佇んでいた。ネットで調べると、今日はサークルに所属している全バンドが出演するらしく、それらが皆友人を呼んでいるので、こうしてすし詰めになっているらしい。

 定刻になり、サークルのリーダーのお決まりのような挨拶から、一つ目、二つ目、とバンドが登場しては去っていく。私はあくびが出そうなのをこらえていた。どのバンドも、上手いと思う。素人が聴いているからかもしれないけれど、素直にそう思う。けれど、上手い、ただそれだけだ。それで何か私の心が動くわけではない。

「柳のバンドって何番目だっけ」

 囁くようにして田尻雄一に尋ねる。いい加減立ちっぱなしで足が疲れてきた。

「え、っと、六番目――あ、次じゃないかな」

 そう言うとともに、舞台上に岩瀬柳が姿を表す。ああ、私と田尻雄一を見てどう思うんだろうなあ、勘違いされて応援されたら面倒だなあ、と思っていたけれど、彼は真剣な表情でマイクの位置を調整していて、こちらを見ることはなかった。ここに来て初めて私は、彼がギターボーカルというバンドの花形の立ち位置にいることを知った。

 どのバンドも紹介なしで一曲目が始まる。岩瀬柳が目線でバンドメンバーに合図して、ドラマーがスティックを振り上げた。あ、始まる、と悠長に私は構えていた。

 一音。

「――――」

 岩瀬柳、の、いつもと違う、常よりも低い声が、私の鼓膜を揺らす。たったそれだけのことで、カッと体が熱くなる。スピーカーから流れ出る振動が直に心臓に届いているみたいだ。

 これはなんだ?

 私はいまなにを聴いている?

 私はいまどうなっている?

 これは、なんなんだ?

 すこし掠れたその声が歌い上げているのが何なのか、私にはわからない。歌詞を聞き取る余裕なんてない。でも、きっとそう、恋の歌だ。歌声と、彼の切ない表情を見れば予想がつく。

 ハア、と吐息をもらす。ずっと息を止めてしまっていた。呼吸を再開したのに、けれど苦しい。正しく息をすって、はくことがこんなに難しかっただろうか。自分の体が自分のものでないような感覚に陥る。

 心臓がバクバクと音を立てているような気がする。燃えるように体が熱い。いつまでもこの歌を聴いていたい。いや、もう終わってほしい。恐ろしい。この歌が永遠に続かないということが、こんなにも悲しくて恐ろしい。それならばいっそ、もう終わらせてほしい。

「――――」

 シャウト。思わず悲鳴をあげそうになった。彼の声は、呼吸を苦しくさせる。どうしてだろう? 私はどうしていま、叫びだしたくなっているんだろう。わあ、と大声をあげてしまいたい。何を伝えるためでもない。ただ、叫んでしまいたい。そうしたらこの身を支配している何かから、楽になれるような気がする。

 私の目には、もう岩瀬柳以外の何も映っていなかった。彼は、ただひたすらに歌っている。私なんて目に入らないぐらい真剣に。

「――――。……ありがとうございました」

 終わった。歌声の余韻を、ギィン、というギターの音色が断ち切る。彼が頭を下げると、拍手が起きる。彼の隣のギターの人が、バンドの紹介を始めた。岩瀬柳は、後ろに置いてある水を飲んでいる。

 軽薄なおしゃべりは、私の耳には入ってこない。

 これはなんだろう。どうして私はただの音の連なりに、体が痺れるほどの衝撃を感じたんだろう。こんなことは生まれて初めてだ。ただただ不思議だった。何も分からない。でも。

 彼が、彼の歌が欲しい。

 そう思った。

「白川さん」

 名前を呼ばれて、そろそろと隣をみる。田尻雄一が、眉をひそめて私を見ていた。

「なんで、……泣いてるの?」

「泣いている? わたしが?」

 頬に手をあてると、たしかに濡れていた。自分の目がどうして涙をこぼしているのか、私にもわからなかった。






あとがき

 

筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。上記の作品は、12/7のために書き下ろされました。主催の神乃さん、ありがとうございました。他の方々の作品も素敵なものばかりなので、未読な方はぜひ読んでみてください。

adventar.org

・短編+短歌、という形に図らずもなりました。私の好きな本の1つ、加藤千恵さんの「真夜中の果物」はこの形で構成されている短編集です。短歌という31文字の世界を小説が広げてくれる、また小説の広い世界をぎゅっと短歌に閉じ込めている、この相互の関係性が素敵な作品です。興味があればぜひ。

・バンドものはもともと好きです。書いたのは初めてですが。元ネタとなった短歌は、2017年に詠んでいました。

・少し早いですが、メリークリスマス。