無題(2021/01/23)
蝉の声が耳につく。そうだ、窓があいているのだ。閉めたいけれど、ベッドから起き上がるのは面倒くさい。
ベッドに横になりながら、キャンバスに向かうしぃちゃんの背中をぼんやりと眺める。この時間が一番好きだった。二番目に好きなのは、しぃちゃんとキスをしているとき。三番目は、しぃちゃんの絵のモデルをしているとき。四番目は――。
いや、やめよう。
つまり、しぃちゃんといないときは生きている意味なんてないっていうことだ。もっとも目的もなく大学に入って、流されるまま講義を受けているような人間なんて似たようなものだと思う。それが恋に浮かれれば、こうなるだろう。とうぜん。
「――し、」
い、ちゃん、と続けようとして、やめた。きっとしぃちゃんは振り向かない。集中しているときは私の声なんて届かないし、届いたとしても無視するだろう。しぃちゃんにとって私なんてそんなものだ。私はしぃちゃんのことが好きだけれど、しぃちゃんはとって私は、せいぜい無料でモデルになってくれる便利な人、ぐらいの認識だろう。
彼女に中庭で初めて会ったときのことを思い出す。あの、と声をかけられて、びっくりした。私の理想的な造形の顔が目の前にあったからだ。グレージュの髪はゆるく巻かれていて、風になびいていた。大きな目が、パチリと瞬く。睫毛が長い。
後から、綺麗なカールと思ったのはただの天パだとわかるのだけれど。
『え、……っと、なんですか?』
『絵のモデル、してほしいんですけど』
『モデル?』
『はい。わたし、』
彼女は手にもったスケッチブックを広げた。
『洋画を専攻してて。あ、と、あっちの建物に芸術系の学科があるんですけど』
『知ってます』
スケッチブックの中には、紙いっぱいにスケッチが描かれていた。ランダムに広げてそうだったのだから、きっとどのページも同じなんだろう。パッと見て、レベルの高さがわかった。すごく、上手だ。
『よく、知ってます』
『あ、そうなんですか。えっと、それで、どうですか?モデル』
『モデルをしたら、私に何かいいことがあるんですか?』
『あー、そうですね。もちろん報酬もありますよ。お金とか、あとわたしにできることなら』
『付き合ってくれますか?』
彼女はパチリと、瞬きをした。
『交際、してほしいんですけど。恋人になってほしいんです』
『あ、はい。いいですよ』
彼女は顔色ひとつ変えずに言った。頭がカッとなった。
『いいんですか?私、女ですよ。本当に付き合えるんですか?』
『できると思います』
『キスできるんですか?』
『えっと、お金は要らないんですよね?大丈夫ですよ、キスぐらい』
もともとレズビアンかバイセクシャルなんだろうか。それにしたって、お金の代わりに体を売るような真似をするなんて、よく悩まずに即答できるものだ。それほどの覚悟がないと、絵を描くことはできないんだろうか。
『じゃあセックスも?』
『はい』
彼女の顔がぐっと近くなった。一歩踏み出したのだ、と気づくと同時に、唇が触れ合った。
二の腕を彼女の手がつかんでいる。瞳しか見えない距離で、もう一度言った。
『できますよ、それぐらい』
そうして、私は彼女の恋人になり、モデルになった。
ベッドに横になったままで、しぃちゃんの背中を見る。華奢な身体は布ひとつまとっていない。彼女は抱き合ったあと、服も着ずに絵を描くのが好きだった。どうしてかは知らない。シャワーぐらい浴びたら、とアドバイスをするけれど、彼女が私の言う通りにしたことはない。
日の光を浴びたことがないような背中。傷ひとつないその肌に爪を立てて引っ掻いてしまいたい欲望にたまにかられる。ひぃちゃんの顔も、身体も、声も、すべてが愛おしいのに、一筋だけでいいから傷をつけたい。
「あいちゃん」
いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。静かな夜の部屋に、ひぃちゃんの声だけが響く。
「わたし、あいちゃんが思っているよりも、あいちゃんのこと好きだよ」
私は何も答えない。
「あいちゃんも、わたしと同じぐらい絵が描けたらよかったのにね」
ああ、本当に、この女のことが世界でいちばん嫌いだ。
筑大深夜の真剣SS60分一本勝負(2021/01/23)のために書きました。
お題はかく:「描く」「搔く」(引っ掻く)です。