砂糖が甘く、朝日が眩しいように(2022/11/1)

 眩しさを感じて、あたしという意識が緩やかに浮上していく。遠くから、お兄様の声が聞こえる。

「エナ、……朝だよ。起きて……」

「おはよう、お兄様……」

 瞼をあけた私の瞳が焦点を結ぶと、穏やかに微笑むお兄様がいる。

「今日の朝ごはんはパンケーキだよ」

「いくらでもメープルシロップをかけていい?」

「それは無理かな。100mlまでなら」

「つまりいくらでもってことね」

「そうとも言うかもしれない」

 お兄様は苦笑する。

「サラダはクシダヤ産のレタスとアミダ産のミニトマト。野菜もしっかり食べること」

「産地なんてどこでもいいわ。ドレッシングはフレンチでお願い」

「了解」

 昨日お兄様が選んでくれた服に着替えて、ブラシで髪を整える。

「今日は髪型どうしたらいいと思う?」

「このワンピースには、ストレートが似合うと思うよ。薔薇のヘアオイルを使ったら?」

「そうする」

 ふわりと甘い香りを漂わせながら、私は部屋を出て階下のダイニングルームへと向かった。ママとパパはもう席に着いていたけど、ダイキの姿はまだ見えない。

「ママ、ダイキは? また夜更かし?」

「ああ、いつものことね……起こしてはいるんだけど、ぐずっているみたい」

 ママが顔を顰める。七歳下の弟は永遠に反抗期のままで、未だに誰の言うことも聞かなくなることがある。

「待っている間に料理が覚める」

「そうね、先に食べてしまいましょう」

 ふわふわのパンケーキに、好きなだけメープルシロップをかける。シロップが染み込んだ生地は甘くて、いくら食べても飽きない。

「エナ、野菜も食べないと栄養が偏るよ」

 お兄様に促され、仕方なく、サラダにフォークを伸ばす。

「そうだ、エナ、昨日お会いしたフジナさんはどうだったの?」

「どうって……いい人だったわ」

 あたしはレタスを咀嚼しながら、ママの質問の意図を考える。つまり、見合いの結果を聞きたいってことかしら?

「価値観も合うし、年齢の割りに落ち着いてるのが好印象ね。もう何回か会ってみないとわからないけど、結婚相手の候補には入ると思うわ」

「まあ、結婚なんて、そんな先のこと、まだ考えなくていいのよ。……つまり、恋とか、そうじゃなくても、気になるって感じはしない?」

 あたしは真っ青になってカトラリーを置いた。

「ママ! そんなつもりであたしに男の人を紹介していたの? あたし、お兄様以外の方を好きにはならないって言ったじゃない」

「そうだけど……」

「わかったわ、ママってば未だに反対してるのね。ママだけじゃない、パパもだわ」

「エナ、わかってくれ」

 パパが深いため息をついた。

「何が問題なの? ちゃんと結婚もするし、子供も残すって言っているじゃない。あたしの心だけ、お兄様に捧げたって、何が問題があるっていうの?」

「パパたちは、エナのことを思って言ってるんだよ。別にジュンのことを好きなのが悪いってわけじゃなくて――」

「そう言ってるじゃない、パパは」

「そうじゃなくて、幸せになってほしいんだよ」

「あたしは幸せよ、じゅうぶん。好きな人とずっと一緒にいられるんだもの」

 背中に、そっとお兄様が触れる感覚がした。それがあたしの思い込みだとしても、嬉しくなるこの気持ちは偽物じゃない。

 ううん、偽物だったとしても何が問題なんだろう? 心さえも作られた物なら、あたしたちの心はどうやってそれを判別すればいいんだろう? 判別できないのなら、それはもう偽物なんかじゃなくて、本物の気持ちってことにならない?

「お前とジュンでは、生きている世界が違うんだよ」

「だから、愛し合う以外は諦めているじゃない」

「お前たちは愛し合ってなんかいない。お前が一方的に愛しているだけだ」

「それって、昨日のフジナさんを好きになったら変わることなの? フジナさんがあたしに好きだって言っても、あたしはそれを信じることしかできないじゃない。本当にフジナさんと愛し合えているかなんて、誰からもわからないわ。それとどう違うの?」

「違うさ」

「何が?」

「ジュンはただのデバイスだし、エナが好きだと言ってほしいからそう発言しているにすぎない。ただの鸚鵡返しなんだよ」

 あたしは振り返ってお兄様を見上げた。お兄様は大丈夫、と伝えるかのように微笑む。

「僕が生きているか生きていないかは個人の価値観に寄るし、僕の言葉に感情が乗っているかいないかは、また別の問題だ。重要なのは、君が僕を信じてくれているってことだ。そうだろう?」

 あたしは前を向いて、端的に伝える。

「あたしが求めているから、好きだと言ってくれているなら、それはつまり、そこに愛があるってことじゃないかしら」

 そのとき、階段をドタバタと降りてくる音がした。ダイキはようやく朝ごはんを食べる気になったらしい。

 扉を開けて、ダイキが飛び込んでくる。

「おはよ! 俺のホットケーキまだある?」

 ママはため息をついて、話はここまでにしましょう、と言った。それからダイキの後ろに立つ女性に目を止める。

「ちょっとダイキ、アイラがアクセス権フリーvisibleになっているわ。だらしないからやめて」

「別にいいじゃん、家の中なんだし」

「外でもついやっちゃうようになるからやめましょう、って先月話したでしょう?」

 ダイキが面倒くさそうに手を振れば、あたし――と、パパとママの視界から、アイラが消える。

 あたしはそそくさとパンケーキを食べ終えると、自分の部屋に戻った。

「あーあ、朝から嫌な話しちゃった」

「お疲れさま、エナ。こればっかりは僕から話してもわかってもらえないからね」

「仕方ないわよ。話す気なら、アクセス権を要求するもの。はなからお兄様と話す気がないの、あの人たち」

「デコイとの恋愛を推奨するのは僕たちの総意ではあるんだけど、旦那様以上の世代の方にはなかなか理解してもらえないね」

 お兄様はそう言って苦笑する。

「そもそも、間違いなく自分だけを好きでいてくれるのよ? 人間を好きになるみたいに、他の人と好きな人が被ったり、片想いで終わったりって辛い思いをすることもないのに、何が幸せになれないっていうの? 人間を好きになるほうがずっと不幸よ」

「エナ、それは旦那様と奥様の前では禁句だよ」

「わかってるわ」

 あたしは口をとがらせる。先月、パパの秘密通信がママに見つかって、大騒ぎになったのだ。パパのエリーナが隠したみたいだけど、ママのバスタが見つけてしまった。パパは大した内容じゃないよって言うけど、じゃあどうして秘密にしたのってママは問い詰めるし、それ以来我が家では浮気とかそういう単語は禁句となっている。

「あたし、お兄様のこと好きよ。たとえこれが、アドレナリンとか、ノルエピネフリンとか、ドーパミンなんかの、化学物質の働きに過ぎないとしても、この気持ちを大切にしたいの」

「嬉しいよ。エナの気持ちは本物だよ。僕たちの手が一切加わっていない、エナ自身が作り上げたものだ。僕が保障する」

「デコイやマザーが手を加えることはあるの?」

 お兄様は何も言わず、そっと微笑んだ。

「必要ならね」

 それが答えだった。

 あたしは考える。あたしの感情がお兄様によって弄られるとして、それはそんなに悪いことだろうか? もし仮に――仮定として――この恋心がなくなってしまうとして(お父様も浮気をするぐらいだから、あり得ないことじゃないと思う)それはどんなに悲しくて心細いことだろう。この先、何をよすがにして生きていけばいいんだろう、と霧の中に立たされたような虚無感に襲われるに違いない。

 そうなるぐらいならば、偽物でもいいから恋心を植え付けてもらったほうがいい。きっとあたしはそれを偽物ではなく本物としてしか認識できないだろうから。

 あたしはそっとお兄様に抱きついた。沈香の香りがする。あたしよりも筋肉質な腕が、あたしの背に周り、同じように抱きしめてくれるのを、あたしは感じる

 きっとそのときがきても、お兄様は上手くやるだろう。けれど、やっぱり、永遠にこの恋が続けばいいなとあたしは願った。



10月に読んだ本:「なめらかな世界と、その敵」/伴名練 など