アイスコーヒー(2023/12)
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今きたところ」
そんな有り触れた会話で私と林原君のデートは始まった。パーカーを着た林原君は、制服姿しか知らない私には新鮮で、それだけで胸がいっぱいになった。手を繋いで映画館へと歩き出す。私の好きな映画。私の好きなオムライスで少し遅いランチ。おしゃれなモニュメントの置かれた公園を散歩しながらとりとめもない話をする。夢にみた理想のデートだった。
だからこそ、ひとつずつ重ねるたびに、本当にこうなっちゃうんだ、という不安感が胸に突き刺さった。
大来さんってディズニー好きだったよね、と林原君は覚えていてくれていたし、女の子が好きそうなカフェをいくつか調べてくれていた。お姫様みたいに扱ってくれた。そうして欲しいとずっと思っていた。林原君が、私を世界でいちばん大切な人として扱ってくれたらどんなにいいだろうって。
どうしてそうも切実に願っていたかというと、叶わないと思っていたからだ。
「喉乾いたよね、なにか飲み物買ってくるけど、苦手なものとかある?」
ううん、特にないよ、そう答えながら、何も買ってこないで欲しいと願う。なんならもう解散でもいい。寂しくなるぐらいがちょうどいい。私が寂しがっていて、林原君にはへっちゃらな顔で、駄々をこねる私に困ったように笑ってほしい。
残念ながら現実はむしろ逆で、私はもう終わっていいと思っているのに、林原君がデートを続けようとしている。まるで林原君のほうが私のことを好きみたいだ。好き?
たった数日前に、私から告白したのに? それまで私のことなんか眼中になかったはずなのに?
林原君がアイスコーヒーを手に戻ってくる。むこうに見えるキッチンカーで買ってきてくれたらしい。この優しさが私を好きだからなんかじゃなくて、万人に向けられるものだったらいいのに。
ベンチに座って話しながら、林原君の好きなところを一つずつ数え上げる。
数学が得意なところ。
目尻が垂れていて優しく見える顔立ち。
たまに後ろ髪がぴょこんと跳ねているのが可愛い。……可愛いかな?
男子たちが下ネタで盛り上がっていても、困ったように笑って混ざらないところ。
どれも好き。うん、大丈夫。
「あのさ、大来さん」
「うん」
林原君が空になったカップをベンチに置く。そっと、私に顔を寄せた。
あ、キスされるんだ。
気持ち悪い、と思った。思考よりも先に、シンプルな嫌悪感が胸に広がってしまった。鳥肌がバレませんようにと祈りながら、目をつぶって落ちてくる唇を受け入れる。
どうしてキスなんかするんだろう。キスしてみたいから。それぐらいの軽い性欲で、好きでもない女の子にキスできる男の子ならよかったけれど、林原君がそんな男の子だったら好きにはならなかった。
林原君は私のことが好きなんだ。キスしたいと思うぐらいに。
どうして? 可愛くもなくて、勉強も運動もできない、愛想もない私なんかを、どうして好きになるんだろう。ただ告白されたから、それだけの理由で好きになれるものなの?
そんな混乱を押しつぶすように、胸の中で、だいじょうぶ、と呟く。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
今回は急だったからびっくりしたけれど、キスをされて嬉しいなと思うときが私にもくる。慣れるまで我慢すればだいじょうぶ。だって私は林原君のことが好きだから。
数学が得意で、優しい顔立ちで、穏やかな話し方をする林原君のことが好き。
私のことを好きなんかじゃない林原君のことが、好き。だった。
<12月読んだ主な本>
・明るい夜に出かけて/佐藤多 佳子
・蒼海館の殺人/阿津川 辰海
・近畿地方のある場所について/背筋
・あなたのための短歌集/木下 龍也
毎月なにか書くチャレンジを2022年11月から続けてきましたが、一旦終わりとします。
毎月書くというノルマを課すことで、アウトプットの練習になったと思います。これからは、一作一作により時間をかけて、練度の高い作品を作りたいと思っています。
お読みいただいた皆様、ありがとうございました。
薄明(2023/11)
大毅のアパートの隣にはガストがあって、そこが僕たちのたまり場だった。僕たちは最初そこで履修の組み方の相談をした。推奨される時間割は提示されていたものの、大毅はどこからか先輩の過去の時間割を入手してきて、これが楽単で、と指差しながら見せてくれた。どうして僕にだけ教えてくれたのか結局わからなかったけれど、きっと人生ってそういう風に大した理由もなく決まることがあるんだろう。
「で、この教授の授業は欠席取らないから、テストさえ受ければいいらしい」
「それってテストが難しいんじゃないの?」
「過去問さえ手に入れば楽勝」
大毅がブイサインをしながら、過去問の写真を見せてきた。
「へー、もう手に入れたんだ。早いね」
「まあ」
「どんな問題があるの?」
僕は写真を拡大しようと手を伸ばした。中指の反応が悪かったのか、テスト用紙の写真はスワイプされ、画像フォルダのひとつ前の写真が目に飛び込んできた。
裸の女の子の写真だった。
AVやそういう類の雑誌を撮ったものには見えなかった。構図も何も考えられていない素人感と、間違いなく生の人間を撮ったと思われる画質の良さがアンバランスだった。
「え、何これ」
「あー、これ。撮らせてくれたんだよね。誰にも見せないならいいよって」
「見せてるじゃん」
「そりゃね」
女の子は僕を、というかカメラをしっかりと見つめていた。何かを期待するような表情で。隠されることなく写っている胸は小ぶりで、形がよかった。手のひらにすっぽりと収まるぐらいだ。
僕はその子をしみじみと見つめて言った。
「馬鹿だね、この子」
たとえどんなに信頼できるような相手だったとしても、デジタルな画像が残ったらそれが何に使われるかなんてわからない。ましてや、大毅みたいな男ならなおさらだ。
僕の言い方が大毅のツボに嵌ったらしくて、あははと彼は大きな笑い声をあげた。
「そうなんだよ、馬鹿なんだよ。何でも言うこと聞いてくれんの」
「そんな子とどこで出会うの?」
「どこにだっているだろ、どこにだって。でもまあ、セックスしたかったら紹介するけど?」
僕はもう一度写真を見た。このおっぱいに触ってみたいと僕は思った。
「そうだね、お願いしようかな」
それから僕と大毅はいろいろなことをした。写真の女の子と3Pもしたし、街に出てナンパした女の子にレイプ・ドラッグを使ってセックスしたりもした。公園で酒を飲んで、勢いでカラオケ大会を始めたりとか。
僕が特に好きだったのは、女の子二人を誘って、スワッピングをしながら四人でセックスをすることだった。世の中には思ったよりも、複数人でセックスすることに興味がある女の子がいる。僕が次第に気づいたことは、そういう女の子たちの多くが、どちらかというとセックスしている相手、つまり僕や大毅ではなく、隣で犯されている女の子に興味を持っているということだった。僕や大毅はただの棒にすぎず、というのは言い過ぎかもしれないけれど、彼女たちのセックスの仲介役に近かった。
僕は一回出せば満足するけれど、大毅はヤッてもヤッても物足りないというタイプらしく、終盤は大毅が二人の女の子を相手にすることが多かった。僕はソファにだらけた姿勢で座って、そのセックスを眺めることになった。僕はその時間が割と好きだった。モノクロの無声映画を見ているみたいで。
その時間だけじゃなくて、大毅と馬鹿なことをやっている日々に夢中になっていた。
明日はどんなことをしようかと、ガストでドリンクバーを飲みながら計画をたてた。どんなことでも大毅とならワクワクした。それは今でも同じだ。でも。
「あーごめん、俺ちょっと電話出てくるわ」
「美咲ちゃん?」
「そ」
大毅がスマホを持って、ガストを出ていく。美咲という女の子と付き合いだしてから、大毅はセフレを全員切った。ガストでする話も、最近は単価のいいバイトとか、インターン先の狙い目とか、そういう話ばかりだ。
きっと一年前だったら、勝手に裏切られたように感じて、大毅をなじっていただろう。
けれど、大毅の――大毅と僕の関係性の変化を、寂しいとは思わない僕がいる。それはきっと、僕自身も変わったからだ。
ぼんやりと眺めた窓の外で、街路樹からはらはらと木の葉が落ちていった。この街にも冬が訪れようとしている。
終わりは唐突に訪れるのではなく、次第に薄れていくものなのだと僕は気づこうとしていた。
※blogで公開したのは12月ですが、初出はX(旧Twitter) 2023/11/30です。
<11月読んだ主な本>
・マリアビートル/伊坂幸太郎
・AX/伊坂幸太郎
迷い込み短歌(2023/10)
何処かに迷い込む話を短歌にしました。
※blogで公開したのは11月ですが、初出はTwitter(2023/10/31)です。
10月に3泊4日で台湾に旅行してきました。背景の写真はそのときに撮ったものです。
私が泊まった部屋は5階で、窓からはホテルと似たようなビルが続いているのが見えました。
台湾の街並みは想像していたより日本と変わらなくて、けれど看板の文字は明らかに日本語ではなくて読めず、「日本みたいだけど日本じゃない何処か」へ迷い込んだような気持ちになりました。ただ、読めないとはいっても、日本と似ている漢字も多く、なんとなく書いてある内容がわかったりするんですよね。
ホテルの部屋の窓を開けて眺めていると、ふと、「危険なので開けないでください」と英語で注意書きがあるのに気づきました。危険なのに大きく開閉できるような作りになっていて、安全性が利用者に委ねられていることも驚きでした。
<10月に読んだ主な本>
・領怪神犯1・2/木古 おうみ
メリア(2023/09)
クソみたいな親のもとで育った子供は、人間になれない。
つまり私も、メリアも、人間にはなれなかった。ということ。
樋崎誠太郎は世間的には立派で成功した人間に見えるかもしれないけど、残念ながらまともな父親じゃなかった。クソみたいな男がお見合いでクソみたいな女と出会って結婚しつつ、また別のクソみたいな女と浮気した結果、一人の男の子と二人の女の子が生まれた。これが私とメリア、そしてメリアのお兄さん。
私がメリアと出会ったのは十二歳のときだった。ちょうどそのころ、メリアのお兄さんが死んだらしい。樋崎はスペアを自分の手元で育てることにした。私の母親は樋崎から金を受け取って、私を引き渡した。私は学校のクラスの中で一番成績がよく、空気を読むのにも長けていた。(なぜかというと、少しでも母親の意に沿わないことを言うと彼女は泣き出すからだった)私のそうした長所は樋崎のお気に召した。彼は当初、つれてきたスペアに婿をとらせて会社を継がせる気だったが、次第に私を後継者にしてもいいんじゃないかと考えるようになった。彼は自分の血を継がせることを諦めきれなかったのだ。
「まあ、お前は女にしては頭がいいしな」
樋崎は(私ももう樋崎だったけれど)たびたび私にそう言った。
当然だが、後継者になるということに私の意見はまったく反映されていなかった。
ところで、女は一般的に頭が悪いものだと樋崎が考えるようになったのも仕方がないことかもしれなかった。彼の一番身近にいた二人の女性――メリアの母親と、私の母親は、どちらも男に依存しないと生きていけないくせに、すぐに感情的になってヒステリーを起こすような女であり、彼の考える賢さからは最も程遠いところにいた。そしてメリアは、私が出会ったときから、類まれなる愚かさを抱いていた。一歳年下だった彼女は、父親が怒ったり、母親が叩いたりするのは、すべて自分が悪いのだと思いこんでいた。疑いすら――悪いは自分じゃなく、両親なのではないかと――欠片も抱くことはなかった。そんな無垢さが私は愛おしかった。私はメリアを啓蒙し、彼女はクソみたいな親に愛情を抱いても無駄なんだわかってくれた。両親と私たちの間には信頼関係なんてない。あるのは利害だけだ。
「だけど、ミィちゃんは信じられる?」
「そう」
その通り。私もメリアだけを信じていた。
私はメリアの親がメリアに教えなかったすべてのことを教えた。
他人を貶すための百の言葉。
自分を正当化する方法。
勉強で手を抜いても怒られないところと、怒られるところ。
子供だけで居座っても怒られない場所。
冷蔵庫にあるものだけで作れるご飯。
母親が泣きだしたときに、何て言えばこちらに干渉しなくなるか。
眠れない夜の子守歌。
信頼しあうということ。
メリアが二十歳を超えたら、二人でどこか遠くへ行こうと決めていた。後継者がいなくなってあの男も慌てふためくだろうか。そうなったらせいせいする。
どこに旅立つかを考えるのが常日頃の私の楽しみだった。北海道に住んで、一年中炬燵を出しっぱなしにするのもいい。あるいは沖縄に行って、観光ガイドになるのも。車の免許をとって、キャンピングカーで旅するのも楽しそうだ。
楽しみだねミィちゃん、とメリアも言っていた。
あの女が来るまでは。
「こんにちは、真莉って言います。これから、二人のお母さんになるの。よろしくね」
メリアの母親がいなくなって、急に現れたその女は、私とメリア――と樋崎の前に今まで現れたどのタイプの女とも違っていた。穏やかに笑う彼女は、いきなりお母さんなんて呼ぶのも難しいかもしれないけどね、と優しく言った。私たちの気持ちに配慮するように。
配慮!
樋崎が選ぶ女が、そんな行動をとるわけがない。
隣のメリアを見ると、ぽけっと呆けた顔で彼女を見ていた。私はその時点で嫌な予感がした。
メリアが小声で私に囁く。
「新しいお母さん、優しそうな人だったね」
「そう? どうでもいいかな」
嫌な予感は的中して、メリアはこの「新しいお母さん」に一瞬で懐いた。幸いに、と言っていいのか、真莉は珍しくまともな母親だった。だからこそ、たまにふっと絶望のようなものが頭をよぎることがあった。それはたとえば、手作りのパウンドケーキを食べたときとか。バイト代で買ったミニスカートを褒められたときとか。樋崎の言動をやんわりと窘める様子を見たときとか。まともな人間に育てられたまともな人間は、こういう大人になれるのか、と。
けれどもその絶望はまあ、私の問題だし、私も今さら人間になれるわけじゃないんだから仕方ない。
私の頭を悩ませたのはメリアだった。十一歳のときから大事に育ててきたメリア。それが一瞬でミルクの匂いがするような女に盗られるなんて。
今まで私の生徒会活動が終わるのを教室で待っていたメリアは、学校が終わったらすぐ家に帰るようになった。十九時に家に着くと温かいご飯が食卓に並んでいて、真莉さんと一緒に作ったんだよと自慢げに笑うメリアがいる。メリアはどんどん、どこかにあった陰を失い、家庭的で穏やかな女の子になっていった。まるで樋崎真莉みたいに。
大人になったら遠くへ行こうという話はどうなったの?
そう尋ねることが私にはできなかった。
無垢だった十一歳のメリアならば、いくらでも思い通りにできる未来が見えたけれど、真莉さんに汚染されたメリアが私の言葉にどう反応するのかわからなかった。嫌な想像ばかりが思い浮かんだ。
『遠くへって、そんな子供みたいなこと、まだ言ってるの?』
この想像はまだマシ。
『ごめんね。あたし行けない。だって、真莉さんを置いていけないもん』
自分の想像力を恨みたくなるぐらい最悪な未来だ。
メリアも私と同じように、人間になれなかった子供だと思っていた。でも違うのかもしれない。何しろ、メリアを実質育ててきたのは私だし、こうして真莉さんというまともな母親を得ることができたんだから。
メリアは、人間になれたのかもしれない。
春が来て、私は志望校の欄に日本で一番有名な大学を書いた。樋崎誠太郎は満足げに頷いた。この反応は想定通り。問題ない。樋崎真莉はすごいねえと笑った。これも想定通り。
深夜十一時、メリアが鍋でホットミルクで温める様子から目を反らしながら、大学決めたんだよね、と私は呟いた。
「ええ、その大学、あたしも行けるかなあ」
メリアが当然のように私と同じ大学に進もうとしていることに安堵する。
「どうだろう、私はこれからメリアの勉強をあまり見られなくなるし。このままだと、無理なんじゃないかなあ」
「え」
メリアの視線が私に向く。のを感じる。
「、じゃあ、あたし、どこに行けばいいの?」
「うーん、まあ、どこでも、別に父さんは許してくれると思うけど」
「え、あたし、ミィちゃんが相談に乗ってくれると思って……」
「メリアの将来なんだし、メリアで考えたら?」
「え、でも、あたしの将来はさぁ……」
「ねえ、鍋、もういいんじゃない?」
「ミィちゃん、……なんか、怒ってる?」
「鍋、沸騰してる」
「ミィちゃん……」
「沸騰してるってば! メリア!」
メリアを見ると、彼女はぼろぼろと涙を零していた。動揺する。自分がメリアを泣かせたこと、を喜んでいる自分がいて。
「なんで、あたし、ミィちゃんと一緒にいるって言ったじゃん。ミィちゃんとならどこにでも行くし、ミィちゃんの将来が、あたしの将来なんだもん。なのに、ねぇ、なんで? なんでミィちゃん、あたしに冷たくするの? あたしのこと、もう嫌いになった?」
「なってないよ」
「なってる……」
「なってないって」
「なってる!」
「父さんたちが起きるから、大きな声やめて」
「ミィちゃん、ひどい…………」
私は、ため息をついてメリアに近寄った。コンロのつまみを回して火を止める。少し焦げたような臭いがした。
「ごめん、ちょっと自分のことばっかり考えてた。でも、メリアのことは大好きだから」
「ほんとう?」
「本当だよ」
私はメリアを後ろから抱きしめた。愛おしい私のメリア。
泣き出したメリアは、彼女のお母さんそっくりだった。結局私もメリアも、人間にはなれなかったんだな、と痛感する。
でも仕方がない。クソみたいな親に育てられた宿命だから。実際のところ世の中こんな人間モドキばっかりなんだろう。それでも上手く世の中は回っていくのだ。メリアの頭を撫でながら、私の脳裏には沖縄の美しい青い海が広がっていた。
※blogで公開したのは11月ですが、初出はTwitter(2023/9/30)です。
<9月読んだ主な本>
・ツナグ/辻村深月
・流浪の月/凪良 ゆう
・わたしの美しい庭/凪良 ゆう
・親といるとなぜか苦しい: 「親という呪い」から自由になる方法/リンジー・C・ギブソン
ピアノを習っていてよかったこと(2023/08)
その高校で、K大学に合格したのは私と村中だけだった。嬉しくはない結果だった。教室の真ん中で、先生にバレないメイク方法とか、男と付き合ったり別れたりすることばかり話している人間と相容れないことなんて、はっきりわかっていた。何より村中はバレー部だった。どうせなら仲良くできそうな人と進学先が同じだったら、大学でひとりぼっちになることを最初から避けられてよかったのに。
放課後、村中が話しかけてきたとき、ああ大学の話かと思った。だからチケットを2枚差し出されたときは拍子抜けした。
「これ、一緒に行ってくれない?」
ピアノのコンサートのチケットだった。そんなものに村中が興味があるのも意外だった。
「え、なんで?」
そう問いかけると、村中は気まずそうに目をそらした。
「御井と和美はまだ受験残ってるし」
いつもメイクと恋バナをしている女達の名前が出てくる。
「彼氏と行けば?」
「とっくの昔に別れてる。……ねえ、行かないなら行かないでいいけど。その、こういうのってルールとかあるの?」
「ルール?」
「だから、何分前に着かないと入れないとか、こういう服はダメとか」
私は村中をまじまじとみて、彼女の頬が微かに染まっているのに気が付いた。そして村中が私に話しかけてきた理由もわかった。私がクラシック音楽に詳しいと思っているんだろう、合唱コンクールで伴奏をしたから。
村中は私に助けを求めているんだ。村中のことは全然好きじゃなかったけど、無碍にする道理もなかった。
「開場時間に着いていればいいし、時間はチケットに書いてある。服は、まあ……県立ホールならどんな服でもいいんじゃないかな」
それでも不安なら、一緒に行くけど。
そう言って、私は一枚のチケットを手に入れた。
当日、駅で集合した村中はそわそわとして落ち着かない様子だった。それでも待ち合わせには遅れなかったし、チケットに書かれた番号をみて、何の問題もなく席まで辿り着いた。これなら私の付き添いなんて要らなかったんじゃないかと思うぐらいだった。
演奏が終わって、会場中に拍手が鳴り響く中、村中はただ私だけを見て、ぽつりと、ありがとう、と呟いた。
それから会場を出た私たちは、なんとなく海岸沿いを散歩しながら、お互いの話をした。
「まあ、ママはパパのことがまだ好きなわけよ。未練たらたら。パパは結婚すらしてくれなかったのにね」
「よくわかんないね」
「でしょ。パパもパパで、今さら自分のコンサートのチケットとか送ってくるし」
「うわあ、それもわけわかんない」
「まあ娘?に、聞いてほしかったのかもしれないけど。正直あたしパパのこととかピアノとかどうでもいいし。でも、そんな面倒なことになりそうなトコに、ママを連れていくわけに行かないじゃん」
村中はごみ箱に駆け寄ると、つい二時間前には丁寧に握りしめて係員に渡したチケットを、無造作に放り込んだ。
「ま、今日は来てよかったかも。なんか踏ん切りついたしね。この町も、ママも、恋愛も全部捨ててやるんだーっていう」
「いいね、それ」
「あたし、ママみたいに恋愛で人生振り回されるのだけはゴメン。絶対にああはならないって決めてるんだ」
「なんか意外。村中って恋愛が好きなんだと思ってた」
「全然好きじゃないよ。みんなやってるから彼氏とか作ってただけ。全然好きじゃなくても彼氏って作れるしね」
「へえ、そんなもんなんだ」
「そう」
あーでも、そっか、もうそういうのもいいんだ。
村中はそう呟いた。
それからあたしと村中はK大学に進んで、当初の予想とは裏腹に、二、三週間に一回ぐらいは飲みに行く仲になった。村中は結局、大学に入ってからも五回ぐらい告白されて、そのうち二人と付き合った。でも全然浮気していたし、私はそれをハイボールを飲みながら聞いてげらげら笑っていた。
<7~8月に読んだ主な本>
・不器用で/ニシダ
・母影/尾崎世界観
・言語の本質/今井むつみ、秋田喜美
<7~8月に観た主な映画>
・君たちはどう生きるか
いつか私になるまで(2023/06)
たとえばショーケースの中に並べられた食品サンプルがあるとする。スパゲッティでもハンバーグでもフルーツが沢山乗ったパフェでもいい。とても美味しそうで、食欲をそそられる。貴方はそれを食べたいと思う。それを――つまり、サンプルではなく、本物を。結局綺麗に色付けされて並べられた食品サンプルは偽物でしかなく、それ自体を食べたいと思う人はいない。
私は、そういう存在だ。
「食べたいの?」
ショーケースに、イトの顔が映りこんだ。私は首を横に振る。
「うーん、まあ、いいかな。けっこう高いし」
「食べるとしたら、どれ?」
私はフライドポテトを指差した。
「……ミミなら、フルーツデラックスパフェを選んでた。イチゴもメロンもバナナも全部食べたくて選べないって言いながら」
「仕方ないじゃん、私はミミじゃないんだし」
振り返ってイトの顔を見ると、その目がうるんでいた。ぎょっとする。
「ちょっと、泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてなくても泣く寸前じゃん」
「うるさい」
イトは私を置いてバイクの元へと歩き出した。
「えー、ねえ、待ってよ」
慌てて追いかけて、後ろから話しかける。
「これぐらいで泣かないでよ、私がミミじゃないのなんて、今に始まったことじゃないんだし」
「わかってる」
「どちらかって言うと、泣きたいのは私のほうじゃない? いつか死ぬ、っていうか消えることが決まってるんだし」
「そんなことないかもしれないじゃん。ムムは消えないままで、ミミは帰ってこないままかもしれない」
「大丈夫だよ」
「ムムってほんと楽観的。なんで断言できるの?」
「楽観的なのは、私がそう作られたからだけど」
悲しみとか、絶望とか、そういうものを抱かないように。希望なんか最初から抱かないように。勝手に期待して裏切られるだけで傷ついてしまうから。そうして諦めとともに、ただ毎日を生き延びられるように。ミミと同じく消えてしまいたいと思わないように。
「だって、イトが一緒だもん。こんなにもミミのこと大切にしてくれる人がいる世界に、きっと帰ってきたいって思うよ」
「……そうなことないよ」
バイクの元に辿り着いたイトが振り返る。頬を一筋、雫が伝っていた。私はそれを指先で拭ってあげる。
「ミミを一番傷つけたのはあたしだもん」
「うーん、そうかもしれないけど、後悔しているのは伝わると思うよ。夏休みまるごとミミのために使ってくれるなんて、ミミのことを想っていないとできないし」
「……行こ」
イトがヘルメットを投げてよこした。
「次はどこに行くの?」
「水族館。中学一年の夏に、一緒に行った」
「ああ、あそこね」
目玉の大水槽。カニやヒトデに触れるふれあいコーナー。記憶を引き出すことはできる。けれど、そこには何の感情もわかない。無声映画を眺めているような感覚だ。
「ミミは、イワシの群れをすごいすごいって無邪気に眺めていた。小さな魚が集まるだけで、こんなにも強い存在になれるんだって」
「覚えているよ」
記憶しているだけで、私が抱いた感情ではないけれど。
やっぱり私は偽物で、イトが私で満足してくれることは永遠にないんだろう。
だからいつかは、ミミと交代しなければいけない。ミミだけを求めてくれるイトのために。それは悲しいことだけれど、私はその悲しさを諦めで受容できるようになっているのだった。
バイクに跨るイトの体を支えにしながら、その後ろに乗る。イトがエンジンをふかした。
「――――、――――――――――」
「え、イト、なに!? 聞こえなかった!」
「なんでもない!」
加速度。イトの体に慌ててしがみついた。
結局イトは何て言ったのか教えてくれなかった。大したことじゃなかったんだろう。
バイクの振動に揺られながら、ガードレールの向こうに広がる海を眺めていた。きらきらと輝く海は、宝石が敷き詰められたみたいだ。こんなに綺麗なものを見られたなら、生まれてきた意味があったな、と思う。
いつか私がミミになるための旅は、今日も順調に進んでいた。
<5月に読んだ主な本>
・猫を抱いて象と泳ぐ/小川洋子
・不村家奇譚/彩藤アザミ
<5月に観た主な映画>
・岸辺露伴ルーヴルへ行く
・名探偵コナン 黒鉄の魚影