私は夜道をひとりで歩いていました。外灯がぽつり、ぽつりと立っている道を、どれだけでしょう、もう二十分は歩いているような気がします。
そんなこと、普段だったら絶対にありえません。私は女の身で夜道を歩くなんて、そんな不注意な真似は絶対にしません。でも今夜はそうせざるをえないような色々なことが起こったのです。
隆道さんからのお話は、婚約を解消したいということでした。そんなような気がしておりました。シャルドネを頼んでいてよかったと私は思いました。甘口のワインなんて飲んでいたら、現実との落差に目眩がしてしまいそうですもの。
隆道さんは優しくて、お仕事も優秀な方だと伺っており、結婚相手としてなにひとつ申し分のない方でした。きっと悪いのは私のほうなのです。
「歳の離れた先輩でね、年一回ほど一緒に飲みに行かせてもらっている。実家の不動産屋を継いで、といっても家族経営の小さな会社なんだけれども、どうだろうね、君からみたら慎ましく生活しているようにみえる方だ」
いろんな立場の方と交流するのは、人生経験としてきっと大切ですもの。私は頷きました。
「僕はその人と話すとき、外国の話を聞いているような気持ちだった。それぐらい生活が違うからね。ただ、この間飲んだときは違った。お子さんとキャッチボールをしたときの動画を見せてくださってね。ああ、僕の人生にはこういう瞬間は訪れないんだろう、とね」
私は驚きました。なぜって、当然、私は子供を産むつもりでしたから。ですから、隆道さんが子供と遊んでくださるのなら、それは嬉しいことで、訪れないなんてどうしてそう思う必要があるのでしょう。
「女の子なんだよ」
隆道さんはテストの解答を告げるように、そう仰いました。
「先輩のお子さんは、女の子なんだ。君には、女の子がキャッチボールをするなんていう発想はあるかい?」
もちろん、隆道さんがそう望むのであれば、キャッチボールの習い事をさせましょう。ええと、野球の先生でいいのかしら。
そう答えると、隆道さんは悲しそうな顔をしました。私はなにか間違ってしまったんだろうと思いました。
だからきっと、私が悪いのです。
「君と婚約破棄してしまったら、僕はもう出世なんて望めないね。社長が許してはくれないだろう。でもね、それでもいいと思ったんだ。自分の子供の好きなことを、のびのびとさせてあげられるような、そんな家庭を築けるのなら、お金や地位なんかよりずっと大切だって思ってしまったんだ。気づくのが遅くなって、本当に申し訳ない」
隆道さんはそう仰って頭を下げました。私は慌てて、頭を上げてください、とお願いしました。隆道さんの仰ることは難しくて、私にはよくわからなかったのですけれど、とにかく、隆道さんが悪くないということは明らかです。不貞をしたわけでもなく、なにか犯罪に巻き込まれたわけでもないのですから。
隆道さんは大学を出ていらっしゃるから、私よりもずっといろいろなことに思い当たるのでしょう。それは仕方のないことです。
私は隆道さんが呼んでくださったタクシーに乗って、帝国ホテルレストランから帰路につきました。情けない気持ちでいっぱいでした。どうして隆道さんが私を見捨ててしまったのか、皆目わかりません。父と母になんて説明したらいいのでしょう。やっぱり大学には行ったほうがよかったのかしら。でも、変にかしこしらしい女は嫌われると父は言っていました。もちろん頭がよくて活躍している女性はたくさんいます。けれど、中途半端に学問をやって、自分が頭がよくなったと思い込んでしまうような女は嫌われると。そのとおりだと私も思います。
私がキャッチボールをしたことがなかったのがよくなかったのかしら。私がそういったスポーツを禁じられたと、もし、隆道さんが思われたのであれば、それは誤解です。両親は私をのびのびと育ててくださったと思いますし、やりたいことをやらせてくれました。ただ私がスポーツとか、そういったことにあまり興味を持たなかっただけなのです。
タクシーは夜道を進んでいきます。私はやがて、知らない道を走っていることに気がつきました。裏路地のような、人通りのない道です。道が違っているのではないか、とやんわりと運転手に尋ねたところ、ぶっきらぼうに「合ってます」とだけ言われました。不安が募りました。タクシーの中では運転手と二人きりですから、よくないことをされることもあると聞いたことがあります。それきり、運転手は何も言いません。どうなってしまうんだろうと不安のあまり、私は、ここで降ります、と言いました。
「はい?」
「ここでいいです。ここで降ります」
「でも、六本木まではまだだいぶありますけど」
「ここでいいんです」
「はあ……」
私が降りると、タクシーはすぐに走り去っていきました。私はひとり取り残されました。外灯がぽつり、ぽつりと立っている道に、他の人の気配はありません。スマートフォンで地図アプリを出すと、自宅の方面には近づいていたことがわかりました。
どうしましょう。
もしかしたら、運転手の方は合っていたのかもしれません。親切心で、近道を通っていたのかも。そうだとしたら、私が無下にして降車してしまったから、気分を害してしまったのではないかしら。
運転手の方に謝りたいと思いました。でも今更呼び戻すことなんてできません。私は仕方なく歩き始めました。五分も経たないうちに後悔しました。今日履いていた靴は当然、運動靴などではなくて、長く歩くのには向いていないのです。この靴で歩くと、踵の付け根がヒリヒリと痛むことを、私は初めて知りました。夜道には街灯が立っているものの、間隔は広く、中間地点に近づくとその暗さに心細さが募ります。
今日、私が行ったことはすべて間違いだった。そう思えてきました。
タクシーから降りるべきではありませんでしたし、そもそも運転手の方に文句を言うべきではありませんでした。隆道さんに婚約解消したいと言われたときもそう。もっと縋り付くべきでした。そうしたら、隆道さんも考えを変えてくれたかもしれません。多少は私に同情してくれたかも。同情で結婚していただくなんて、隆道さんに申し訳がないですけれども、私などが隆道さんから見捨てられて、結婚できる道はもうないと思われるのです。いったいどうして、数年婚約していた方から振られるような女を拾おうと思う男性がいるでしょうか。世の中には私よりもよっぽど頭がよくて、美しくて、気が利く女性がたくさんいるのに、どうしてわざわざ私などと結婚しようと思ってくれるでしょう。
私はこれから、どうやって生きていけばいいのでしょう。
足が止まりました。交差点に差し掛かる手前、止まれ、と白い線で書かれた、その、れ、の前で両足を揃えて、次の一歩を踏み出すことができませんでした。不思議なことに、止まった瞬間、足の痛みは倍にも膨らみました。踵の付け根だけではなくて、小指の先も痛みます。もうこれ以上歩くなんて無理なような気がしてきました。
私は途方にくれて顔を上げました。
そこに、女の子がいました。
「…………?」
白いワンピースを着た女の子です。私よりも年下でしょう。止まれ、の赤い標識がついたポールに、半身を隠すようにしてこちらを見ています。
近くの家の子でしょうか。女の子が出歩くような時間ではありません。そう考えて、私は自嘲しました。なにしろ私自身が、そんな時間に出歩いているのですから。
大丈夫ですか。一人で歩くには、遅い時間ですよ。私はそう声をかけようと思いました。
言葉が、出ませんでした。
彼女の不思議な髪色、透き通るような白い髪を見ていると、不思議と第一声を発することができないのです。ただただ、彼女を見ていたい。そう思いました。こんな感覚は生まれて初めてのことでした。
「あなた、やり直したいと思っていますね」
彼女がそう言いました。
驚きました。私がさっきまで考えていたことをぴたりと言い当てたのです。
「救われたいと思っているんですね」
「あの、そうです、そうなのです。どうしてわかるのですか?」
彼女は数ミリだけ口角をあげて、微笑みました。イタリアで見た聖女様の絵のように、泰然として、美しい微笑みでした。私はそれだけで何を聞きたかったのかわからなくなりました。
「どうしてやり直したいと思うんですか?」
「それは、なにしろ、隆道さんと結婚できなければ、私は困るのです。隆道さんと結婚しろと、父に言われましたし、子供も欲しいのです。私は大学に行っていませんから、いまさら一人で働いていくなんてできません。私は――」
「ふふ」
彼女は声をあげて笑いました。
「どうして、やり直しただけですべてが上手くいくと思うんですか?」
「それは――」
それは、だって、けれども、彼女の言う通りです。やり直したところで、私のような人間が上手く結婚して、幸せな人生を送れるはずがありません。
「それは、」
でも、そう思わなければ、私はどうしたらいいのでしょう。
「そうですね。今更やり直したところで、上手くいくはずがありませんよね」
止まれ、の標識の赤色は焼き付くように鮮やかに見えます。
「かわいそうな人ですね」
夜道に人の気配はありません。
「かわいいひと」
彼女の声だけが静かに響いています。
「もう、だいじょうぶですよ」
私は驚いて、彼女を見つめました。彼女は変わらず微笑んでいます。
「天国においでください」
「はい、はい、いきたいです。私を連れて行ってください」
「おいでください」
私はこくこくと何度も頷きました。彼女はもう、止まれ、の標識から身体を離していました。数歩、標識から離れた向こう側で、私を招くように手を振っていています。
気がつけば涙がこぼれていました。こんなにも安心できたのはいつぶりでしょう。私は救ってもらえるのです。彼女の微笑みに勇気をもらって、私は痛む足を踏み出しました。
「いっぽ」
彼女のもとへと向かうために。
「にほ」
美しいひと。彼女に救ってもらえるのであれば、私はもう怖いものなんてありません。
「さんぽ」
くるりと彼女が回りました。白いワンピースが夜道に浮かぶように翻ります。
「よん、ご、ろくななはちきゅうじゅう――」
私は駆け出しました。一秒でも早く彼女のもとへ――天国へ、たどり着くために。
太陽のように眩しい光が私を照らし出します。ああ、私は祝福されているんだ、そう確信しました。
あたしを見て
小学生のころにはもう、自分の人生に二つの不幸が訪れていることに気づいていた。
一つは、過剰な承認欲求。あたしは常に注目を浴びていたかった。そういう欲が、他の子よりもずっと強いっていうのは、周りをみればわかった。一人っ子で甘やかされたわけでもないし、どうしてこうなったのか自分でもわからない。自分が話題の中心から外れると無性にイライラして、なんとかして注目を引き戻そうと必死だった。最初のころ、それは全然上手くいかなかった。あたしは可愛くもなかったし、服や持ち物がおしゃれだったわけでもなかった。何より隣には星ヶ峯暁子がいた。
二つ目の不幸は、星ヶ峯暁子と幼馴染になったことだ。向こうは子供心にもわかる大金持ちの家系で、本来であれば住む世界が違うところを、婿に入った父親が比較的庶民的だったために公立の学校に通うことになり、母親同士の気が合ったためにあたしたちも必然的によく話し、よく遊ぶことになった。
暁子は次元の違う美少女だった。その異質さは子供たちにも感じ取れて、女の子も男の子も曉子を囲んでうんうんと彼女の話を聞いていた。大人たちは言わずもがな。ほんと、曉子ちゃんは可愛いわねえ。曉子は首をかしげて、にこ、と笑う。それだけでまたみんな喜ぶ。
本当に気に食わなかった。
たしかに曉子は可愛い。絶世の美少女だ。全員が注目するのもわかる。
だけど、あたしが一番目立っていたい。
それは理屈とかじゃなかった。自分の顔が平々凡々なことはわかっている。そんな顔じゃ、曉子みたいにちやほやしてもらえるわけがない。当然だ。でも、それでも、我慢がならなかった。
あたしはテレビ番組を録画して、見まくった。小学校での話題は、人気のアニメと、漫画と、お笑い芸人と、授業の愚痴。あたしは流行っている芸人の一発芸をやった。陰口叩かれてる先生のモノマネも。アニメとか漫画のシーンの再現もやったりした。流行りが変われば、次も流行りを追いかけた。
あたしのモノマネは、学校で大ウケした。美人なんて見てれば飽きる。特に曉子はちやほやされることに慣れきっていて、面白いことなんて一つも言えなかった。あたしはここぞというときにウケるようなネタとか、一発芸を差し込んだ。美結ちゃんおもしろい、サイコー、そう言ってみんなあたしの周りに集まってくるようになった。
中学校に入ってもそれは続いた。別にモテたいわけじゃない。お笑い担当でいい。一人の男の子からの愛よりも、みんなからの注目のほうがずっと心地いい。それに、気づいたこともあった。あたしはモノマネが――演技が、他人よりもずっと上手いってことだ。だからあたしは演劇部に入った。あたしならすぐにエースになれる、そういう自信があった。舞台上で注目を浴びるのも気持ちいいだろうなという確信も。
驚いたのは、曉子も演劇部に入ったことだった。演技に興味があるなんて、そんな様子をみせたこともなかったから。
曉子はずっとその可愛さを保っていて、なんなら中学生になったらちょっと大人びて、もっと美人になったみたいだった。曉子が入ったことに先輩たちはみんな喜んだ。当然ヒロイン役は曉子が抜擢されて、講堂での定期公演にはこれまでの十倍もの人が押し寄せた。
やっぱりムカついた。でも、逆にチャンスだって思った。
曉子は可愛い。でもそれだけだ。どれだけ練習しても棒読みが抜けなくて、顔採用なのが丸わかり。あたしは一年生だけど、重要な役どころである魔女に抜擢してもらった。曉子を見に来た人が、あたしの演技に圧倒されて帰ればいい。
劇が大成功だったかは置いておいて、あたしの演技は大成功だった。観客の息をのむ音が聞こえるみたいだった。廊下を歩いていたら、顔も知らない人から役名で話しかけられることが増えた。この間魔女やってた人でしょ? かっこよかったよ。学園祭は女王役だっけ、それも楽しみにしてるね。
あたしが知らない人が、あたしのことを知っている!
こんなに気持ちいい瞬間はなかった。
高校生になって、あたしは芸能事務所に所属した。演技で注目を浴びる快感は麻薬みたいで、もっと、もっと多くの人にあたしを知ってほしいって思った。ムカついたのは、曉子も同時期に芸能事務所に所属したことだった。モデルから俳優までマルチに活躍するタレントが所属する事務所だ。
当然ながら、無名のあたしに回ってくる役なんて名前もないものばっかり。同級生Bとか、通行人Aとか。それでも着実に仕事をこなして、現場のスタッフにも顔を売って、少しずつ出演時間を増やしていったのに。
曉子は早々に有名雑誌にモデルとして登場した。高校生になった曉子は、奥底に色気も隠れみえて、女子だって見惚れるぐらいに可愛かった。とはいえ、あれだけすぐに仕事が回ってきたのは、実家の権力があったのも事実だろう。曉子がコーヒーを一口飲んでカメラに笑いかけていたCMは、彼女の叔父の会社と取引している会社のものだ。
高校を卒業したころ、四回放送の深夜ドラマ、曉子はその主役に抜擢された。あたしはその友達。名前はついているけど、それぐらい。曉子が演じる役にアドバイスをするだけのキャラクター。それでも現場では表面上仲良くしたし、実は幼馴染なんです、と言って番宣でも名前を売った。曉子を友達と思って話したことなんて、いつぶりだろうって感じだけど。そもそもあたしたち――あたしにも、曉子にも、友達なんているんだろうか? いつだって自分のことしか考えていないのに。
曉子のキャスティングは、顔か、まあ実家のコネか、といったところだった。なにしろ彼女の演技は、中学生のときからいくばくかマシになったか、といったレベルだったから。棒読みとまでは言わないけれど、女優としてやっているなら見ていられない。
まあ、ドラマを見る人間はこの顔を見たいだけなんだから。
そう思っていたけれど、実際に放送が始まってみると、SNSは酷評の嵐だった。視聴者は――お金も払っていないくせに――好き勝手言う権利があると思っている。顔しか見てられない、モデルに演技させるのいい加減やめろ、なんでこれでOKが出たの? そんな罵詈雑言の中に、きらきらと輝く言葉もあった。
ていうか友達役のほうが上手くない?
AKIは美人っていうけど、俺は友人役の子のほうが愛嬌があって好き。
町屋美結ちゃん、無名だけど地道に仕事してる。私はこっちを推します!
そういう言葉が、飛び跳ねるぐらい嬉しかった。あたしに気づいてくれてる人がいる! そういう人を、一人ずつ増やしていけばいい。そうしていつかは、日本を代表する演技派女優って言われて、賞を貰ったりするんだ。
曉子があたしを呼び出したのは、最終回が放送された翌日だった。会員制のバーの個室。普通だったら未成年が入れるような場所じゃないけど、通してくれたスタッフは何も言わなかった。
入って、ドアが閉まった瞬間、水をかけられた。
「ねえ、あんた何なの!? なんてアキの邪魔ばっかりするの!?」
机の上には、スタッフが置いてくれたあたしのグラスが残されている。躊躇なくそれを手に取って曉子にかける。
「こっちの台詞なんだけど! コネ使って役貰いやがってさ、顔とコネだけなんだから、ずっとモデルやってろよ! こっちはお偉方とスタッフに愛想振りまいて地道にやってんだよ。それを土足で踏み荒らすなよ!」
「うるさいうるさい! だって、雑誌なんて女の子しか見ないし、もっともっといろんな人にアキのこと知ってほしいんだもん!」
水をかけられ返されたことに怒るわけでもなく、ただただ有名になりたいと地団駄を踏む曉子をみて、はっと、あたしと同じだと思った。承認欲求という病に憑りつかれている。いつだって誰からも注目を浴びている曉子が、そんなにコンプレックスを抱えているなんて思ってもみなかった。
でもそうか。あたしだって、クラスの人気者じゃ足りなかった。学校で有名になっても足りない。日本中にあたしのことを知ってほしい。すごいって言ってほしい。そうしたら、次は世界で。
この病気は底なし沼なのだ。
「小学校のときも、みんなアキのこと好きって言ってたのに、気づいたら美結と仲良くなってた。演劇部だって、あたしがヒロインだったのに、終わったらみんな美結の話しかしないし! 今回だって!」
「でも無理だよ、あんた演技下手だし。女優なんて向いてないよ」
「じゃあどうすればいいの?」
「……どうしよっか」
顔が可愛いだけのモデルなんていくらでもいる。
演技が上手くて多少愛嬌がある程度の女優も、いくらでもいる。
あたしたちは、どうしたらもっと有名になれるだろう? あたしたちだけの何かを、持たなくちゃいけない。
「……レズ売りするのってどう?」
ぽろりと、あたしの口からその言葉が漏れた。
「ジェンダーフリーとか、いま流行ってるし。絶世の美少女が、そこそこの顔の女の子と恋愛してたら可愛げがある。モブ役ばっかりやってた女の子が、売れてるモデルと恋愛してたらカッコよくみえる。何しろ話題性がある」
「……それ、売れるかな?」
「どうだろう。……そうだ、最初は隠しておくの。隠されたものって、みんな、暴きたくなるから」
「匂わせ、みたいな?」
「そう、それ」
ぽた、と曉子の前髪から水滴が落ちる。怒りでぐちゃぐちゃになっていた曉子の目が、一瞬透明になって、そしてぱっと輝いた。
「すごい! それ、めっちゃ人気出そう! 男なんかと恋愛するより、ずっと!」
さっきあたしに水をかけたその手で、あたしの手を掴んで、満面の笑みを向けた。
「美結、すごい! ありがとう! 大好き!」
星空みたいな瞳があたしを見つめる。あたしだけを。
舞台上で一番の決め台詞を発したときみたいな、心臓が跳ね上がるみたいな高揚感が沸き起こった。
「これからよろしくね、曉子」
あたしは衝動に任せて曉子にキスをした。曉子は目を閉じなかった。あたしも。あたしたちは口づけをしながら、ずっと見つめ合っていた。今が人生で一番注目されているときだって、あたしたちは気づいていた。
+ + +
こちらの作品は、
百合SS Advent Calendar 2025 - Adventar
12/25分の記事として書かせていただきました。
読書感想文 「いずれすべては海の中に」より「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」
読書感想文 Advent Calendar 2025 - Adventar
の12/24の記事として書いています。
読書感想文を書くのなんて小学生以来で、不思議な感じがする。
読んだ作品は、「いずれすべては海の中に」より「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」。
この作品を取り上げようと思った理由は2つあって、1つは表紙がカッコイイからである。書影を載せようと思ったんだけど、版元ドットコムでは利用不可になっていた。だからリンクだけ貼っておく。
背表紙が一番カッコイイと思っているので、できれば書店で探してみてほしい。竹書房文庫の本は全部カッコいい。難点は基本的に翻訳された外国作家の本であるところで、私は翻訳された文章を読むのが得意ではないので。
2つ目の理由は短編集だからで、その中の1作品しか取り上げようとしていないところからわかる通り、この記事を書くにあたって時間がなかった。本当はカササギ殺人事件を読みたかったんだけど、まだ上巻も終わっていない。下巻から面白くなるらしいので頑張りたいところである。
短編集の中で、最もタイトルがカッコイイと思った作品を取り上げることにする。
以降はネタバレを含む。
「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」は「多元宇宙のサラ・ピンスカーたちが集まるサラコンで起きた殺人事件をサラ・ピンスカーのひとりが解決するSFミステリ」らしい。(裏表紙のあらすじからそのまま引用した)
これはおおむねその通りで、というかほぼネタバレである。多元宇宙のサラ・ピンスカーが集まるし、サラコンというのはだから、サラ・コンペティションの略のはずだ。人が死ぬし、それは事故ではなくて殺人だったし(これもネタバレ)、それを主人公のサラ・ピンスカーが解明する。解決するという表現には解釈の余地があるので、そこは違うかもしれない。解決はしていないかも。
N人の――数百人ものサラ・ピンスカーが集まるホテルで、1人のサラ・ピンスカーが死ぬし、彼女を殺したのもサラ・ピンスカーだし、探偵役もサラ・ピンスカー。特殊設定ミステリの極致とも思えるけれども、実際はミステリーというよりSFとしての要素のほうが強い。
並行世界のサラ・ピンスカーと出会うサラ・ピンスカーたちは、ほとんど同じ容姿と(たとえば髪の長さとか、服装とか、性転換していたりとかという違いを除けばほとんど同じ)、ほとんど同じ性格(サラコンに参加するのも怖いけれど、参加せずに後悔するところも怖いといったところ)の人間をみて、でも必ずどこかは違う人生を歩むサラ・ピンスカーをみて、彼女と自分の分岐点に思いを馳せる。あそこでああしていたら。それは羨ましいこともあるし、ほっとすることもある。
たとえば主人公のサラ・ピンスカーは学生のころ暴走する馬から少女を助けることができたけれど、助けられなかった――馬から落馬する少女を目の当たりにしたサラ・ピンスカーもいる。
だからこの物語は、ずっと選択の話をしている。
私自身は、選択を後悔することはあまりない。そもそも本を読んで、自分に重ねて何かを考えるということをしないのだけれど、読書感想文というのはそういうことを書くものだと小学生の頃に学んだので考えてみる。
私は日々の食事や、どんな服を買うかといった選択には絶対に後悔したくなくて、1つ1つを吟味するのだけれど、不思議と大きな決断に迷うことはないし、あとからもっと考えればよかった、と後悔することも少ない。11月には転職をしたのだけれど、辞めるのも転職先を決めるのも即決と言ってもよかった。1つだけ大きな後悔はあるけれど、それに関しては割愛する。
きっとサラは違う判断の先の世界線があることに安心感を覚えるのだと思うけれど、私は想像するとむしろ不安な気持ちになる。今がいつだって最善のように歩んできたはずで、他の世界線ではもっとずっと苦しんでいる私がいるのかもしれないと思うと可哀想だ。ピアニストや、小説家になってもっと楽しく暮らしている私だって、いるかもしれないけれど。
サラ・ピンスカーに話を戻そう。私は「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」の魅力は、少しずつ違うサラ・ピンスカーの観察の描写だと思う。主人公は出会うサラ・ピンスカーの中に、自分と同じところと違うところを見出す。毎度。「ほとんど同じ」サラ・ピンスカーの1人1人の描写をみるたびに、何をもって個性とするのか、作者の人間描写の上手さを感じる。
面白いところは、何百人もいるサラ・ピンスカーの中には、SF作家もいる。つまりこれは、主人公ではないサラ・ピンスカーが描いた物語なのだ。
最後に訳者あとがきで紹介されていた原題を示して終わりにしたい。原題は『And Then There Were (N-one)』。言わずと知れた名作「そして誰もいなくなった(『And Then There Were None』)」をひねった素晴らしいタイトルだと思う。
mirror
その冬の私の一番の楽しみは、相坂麻純の男を見る目がまったくないことだった。
相坂麻純は演劇サークル「D・WHAT・D」の看板女優だ。とにかく飛びぬけて演技が上手かった。パッと目を引く美貌があるわけではなかったが、実際のところ、演劇にはそんなものはむしろ邪魔だった。ふわりと揺れるボブカットの彼女は、メイクやウィッグによって何にでもなれた。なににでも。普段はパンケーキと流行りの音楽の話ばかりの彼女が、何人もの男を手玉にとる美女になったり、病的なほど名誉に固執する画家になったりするのを、みんな感心するばかりだった。
そんな麻純にも欠点というものがあってそれが、付き合う男がみんな屑だということだった。一見、いい人そうと言われる男たちだったが、付き合えばすぐに性格の悪さが露呈した。ある男は麻純の服、化粧、食べ物、生活習慣のすべてに口を出して、自分が考える適切な女性像に近づけさせてあげようと親切心を働かせた。ある男は浮気し、それを認めず、証拠が出た途端に開き直って麻純の冷酷さをなじった。サークルの仲間たちは麻純を気の毒がり、たまに叱って、恋人を切るように勧めたが、麻純は困ったように笑うだけだった。
麻純は恋人を慕って、彼らの言う通りにしようと心を砕いたが、最後には、暴力をふるわれる危険性を感じて恋人関係を持続させることを諦めるしかなかった。たまに、本当に殴られることさえあった。しかし残念ながら、すぐに次の男が現れるし、そいつもろくでもない人間性をひそめているのだった。
と、ここまで他人事のように語ったが、相坂麻純は他でもない私のことだ。
私は自分の恋人たちの屑さを誰よりもよくわかっていた。なんなら付き合う前から。彼らは私の大人しい外見をみて、自分が言うことをなんでも聞かせられるだろうと心のなかで舌なめずりをしていた。それを見ていると思わず笑いが出そうだった。なんて稚拙で、短絡的なんだろう! そして少しでも反抗の気配を感じ取ったときの、慌てて声を荒げる幼稚な様は、若いころの名誉にしがみ付いている画家を演じるにあたって非常に参考になった。なにしろ私は感情が高ぶって怒鳴ったことなんて生まれてこの方ないものだから。
最初の彼氏に対して、嘲笑って弄んでやろうと思って付き合ったわけではない。ただ彼からは、この女は俺より馬鹿だろうし無教養だろうから、俺が多少のアドバイスをしたほうがいいだろう、という侮りが透けていた。私が感じたことは本当なのか、確かめてみたくなったのだ。そしてそれは正しく真実だっただけでなく、私が愚かで無教養な女を演じているなんて彼は疑いもしなかった。自分の演技力には自信があった――普段から演技しているようなものだったから—―けれど、恋人という近さにいても気づかないものかと思うと面白かった。サークルの皆も相坂麻純のことを心配してくれてそれぞれアドバイスをくれたし、「貴方はわざと不幸になりたがっているとしか思えないわ」と核心めいたことを言った人もいたけれど、演技だと見抜いた人はいなかった。それも愉快だった。
そうして私は一年半で四人の男たちを渡り歩いた。はたからみると男たちが代わる代わる私に訪れた、といったほうが正しいだろうけれど。彼らは自分のことばかりに一生懸命で、その愚かさがたまに可愛く見えることもあった。だから実際のところ、恋愛をしていたのはまるきりの嘘ではない。しかし私の中核――演劇に口出しされるとなると、排除するしかなかった。
十月の学園祭は一年でもっとも華々しい公演になる。連日練習漬けの中でも彼との時間は確保していたが、彼は苦言を呈したどころか、サークルを辞めろ、そうでなければ別れると言ってきた。別れるというのは彼にとって魔法の言葉だ。それさえ言えば相坂麻純がなんでも言う通りにすると思っている。髪型もメイクも就寝時間も彼の思い通りだ。演劇に関して以外なら、なんでも。
サークルは辞められないから別れようと私が頷くと、彼は焦ったように前言撤回してきた。冗談だ、ただの例えにすぎない、と。
「え、まって、あはは、それは見苦しいって。おもしろすぎ」
思わず笑ってしまうと、彼は恐ろしいものを見たかのように後ずさった。
そういうわけで、学園祭が当日を迎える少し前から私には恋人はいなかった。学園祭が終わって十一月になった途端に、街からはカボチャのモチーフが消え去って、クリスマス一色になる。次はどの男と付き合おうかと私は悩み始めた。とはいっても、候補はいくらでもいる。聖なる夜には恋人がいてほしい、それだけの思いで恋活を始める男たちが世の中にはわんさかいるのだ。
それから、別れてから大切さに気づいたと言い張る元彼もいる。それが口説き文句になるとどうして思えるのだろう?
今まで付き合ったことがないような、もっと変なことを言う男と次は付き合ってみたい。俺の言うことに従っていればいいから、とか、別れるから最後にエッチしよう、とか、そういう台詞はもう聞いたことがあるから。とはいえ別れた恋人とよりを戻した経験もないので、そちらを試してみるのも面白いかもしれない。
仲のいいカップルを見てはため息をつく私に、サークルのメンバーは諦めるように諭してきた。
「麻純はほんと男見る目ないんだから、恋愛は諦めなって」
「うーん、そうなのかなあ。わたし、恋愛向いてないのかな。でもさ、前の彼氏も、すごくいい人だったんだよ。確かに、毎日会いたいっていうのは難しかったけど……」
「それだけじゃないって」
「じゃあさ、橋谷君はどう? ぜったい麻純のこと好きだって」
橋谷は駄目だ。本当にいい人だから。
「橋谷君は相坂さんのタイプじゃないんじゃないですか」
そう言ったのは、脚本担当の保野田有希だった。
「だって、相坂さんは屑な人間がタイプじゃないですか」
「あー、言えてる」
「じゃあやっぱり恋愛はしないほうがいいじゃん」
お酒が入ったメンバーは好き勝手に話している。こういう様子をみているのも面白い。
「そういえば恋愛っていえばさ、幸田のことなんだけど、」
話題が変わったタイミングで、私はトイレへと立ち上がった。一個しかない男女兼用のトイレには先客が入っていて、私は仕方なくドアの前に立った。しばらくして、隣に人が並んでもトイレは空かなかった。
「人、入ってるんですか」
保野田が隣で言った。
「そうみたい」
トイレのドアを眺めたまま答える。
「相坂さん、次に付き合う人はもう決めてるんですか」
「えー、わかんないよ。いいなって思う人はいるけど、私のこと好きかわかんないし……」
「橋谷君はやめてくださいね。可哀想ですから」
「えっ、保野田さんって、橋谷君のこと好きなの?」
「そういうわけじゃないです。遊びに橋谷君を付き合わせるのは可哀想だって言ってるんです。彼は真面目ですから」
私は保野田を見た。彼女は真顔でトイレの「譲り合ってお使いください」の張り紙を見ていた。
保野田はサークルの中でも特に私に対して厳しい人間だった。演劇の活動自体の話ではない。脚本を書く保野田は演出や演技に口出しすることも多かったが、彼女が私の演技にケチをつけたことは一度もなかった。当たり前だ。むしろ、私の演技をみて、脚本を直したいと言うこともあった。それはそれで、演出や他の役者が大変な思いをするのだけど。
彼女は私の恋愛に対して辛口だった。他のサークルメンバーがからかいながら男を見る目がないと言ったり、アドバイスしてきたりするのに対して、保野田は真面目なトーンで、不幸になる男をわざと選ぶのはやめてください、そんな男と付き合っている時間があるならもっと演劇に集中したらどうですか、と言ってきた。とはいえそれは保野田の通常営業だったので、まさかただ一人私の演技に気づいているとは思ってもみなかった。
でも確かに、誰か一人だけ気づいているとしたら、それは保野田だっただろう。彼女は冗談が通じない性格だったけれど、書く脚本は細部まで練られていた。何より素晴らしいのはキャラクターの作りこみだ。どんな些末な役だって、一つ一つの台詞には必然性があり、その背景にはキャラクターの人生があった。この人は人間観察に人生を費やしているんだろうなと思った。
「橋谷にはしないよ。橋谷に悪いし、つまらないじゃん」
私は前に向き直ってそう答えた。語尾を伸ばす癖は消して。見抜かれている演技を続けたって、保野田は見飽きているだろう。
保野田がこちらを見た気配があった。
「劇的なキャラクター性を持っている人のほうが観察材料になるでしょ?」
「……そうですが、危ない人はやめてくださいね。舞台に立てなくなったら困りますから」
「冬期公演も配役くれるの? 次の脚本ってどんな話?」
「女にだらしない探偵の話です。探偵を恋い慕う婚約者か、色仕掛けで探偵を堕とそうとする犯人役、どちらがいいですか?」
「婚約者の次点は朝間先輩、犯人役は水無川ってところ? ふうん、じゃあ婚約者のほうを私がやったほうがいいんじゃない? 水無川にもそろそろ経験を積ませておいたほうがいいでしょ」
「同感です。あとは片岸先輩がなんて言うかですが」
「演出は片岸ね。まあ、順当なところか」
「片岸先輩は先輩ですよ」
「私はあの人の、他人の話を聞けるところしか尊敬していない」
「大事なことですよ。誰にでもできることではありません」
「婚約者かあ。女にだらしないってことは、たくさん浮気されているってこと? 浮気する人間と付き合ったことはあるけど……スッパリ切っちゃったし、キャットファイトとかもしなかったんだよね。次はそういう人にしようかな」
「浮気する人って見抜けるんですか?」
「見抜けるよ。セックスしたいから彼女が欲しい男を選ぶの。彼女を無料でいつでもセックスできる風俗嬢だと思っているような男を。それで、忙しいからセックスできないって言ったら、いくらでも言い訳をつけて浮気するよ」
「そういうものですか」
「あるいは、私の彼氏に保野田がアプローチして、浮気させるとか。マッチポンプってこと。あ、逆でもいいな。私、浮気相手にはなったことないんだよね。保野田って彼氏いないよね? 作らない? 脚本のネタになるよ」
「嫌です」
「なんで?」
「私は演技が下手なので。きっと嘘だってバレると思います」
たしかに保野田の演技指導はすべて説明で、自分で演技してみせることはなかった。
「あと、処女なので。好きでもない男と痛い思いをしてセックスしたくないです」
私は保野田を見た。保野田は相変わらずの真顔で私をみていた。
上手い男を選べば、別に処女でも痛くないよ。そう言うこともできたけど、その返答はたぶん、保野田の言いたいことからはズレているんだろう。
「セックスしたことないんだ」
「はい」
「それであんな脚本書いてるの?」
「あんなって、どんなですか。別に舞台上でセックスさせるわけじゃないじゃないですか。書けますよ」
「それはそうだけど、たとえば、さっきの探偵はたくさんセックスした経験はあるわけでしょ。そういうバックボーンのあるキャラクターなわけじゃん」
「人を殺したことなくても殺人犯は書けます」
「それはそうだけど」
でも、人は殺せないけど、セックスはやろうと思えばできるじゃん。
私はなんだか惜しいような気持ちになった。私は保野田の脚本が好きなのだ。確かに保野田の言う通りで、今のままでも、ホテルに入る前の雰囲気も、事後の距離感も、十分に描けている。でも、セックスを知った保野田が書いた脚本を読んでみたい。
というか、保野田がセックスしたらどうなるのか、興味がある。
「じゃあ、私とセックスしてみない?」
「…………は?」
「私は入れるモノ持ってないし、処女でも痛くないよ」
一笑されると思ったけど、保野田は笑わなかった。
「本気で言ってます?」
「うん」
「はあ……」
「とりあえず、場所変える? 飲みなおそうよ、ふたりで」
トイレからは未だに誰も出てこなかった。というか、よく見たら青の塗装が剝がれているだけで、空室な気もしてきたけど、今さらトイレに入る気にもなれなかった。
「しかし、まだ解散する雰囲気はないですよ」
「だいじょうぶ。保野田は後ろで黙っててくれればいいから。
私は保野田を連れて席に戻ると、幹事の女の子に声をかけた。
「ごめん。保野田さんが気分悪いみたいで、わたし、一緒に帰ろうと思って」
「え? 大丈夫?」
保野田は黙って頷く。
「えー、飲みすぎた? 相坂ちゃんだけで大丈夫?」
「大丈夫! わたしも明日一限あるし、送ったら帰って大人しく寝ようかなって」
そうして私たちは店を出た。こちらに気づいたメンバーに手を振りながら。保野田は言われた通り、一言も喋らずに会釈していた。
まだ冬は始まっていないとはいえ、夜になると冷え込む。私は保野田の手を握った。
「……こんなこと、男の人にも簡単にやってるんですか。それは男が絶えないわけです」
「え?」
私は保野田が言ったことを反芻した。
「男の人にはしないよ。今は、保野田の手を握ったほうが温かいかなって思っただけ」
「……そうですか」
「うん。男は勝手に握ってくるし」
「そうですか。なるほど。勝手には握らせないほうがいいですよ」
「え、だって自分の鞄を持つみたいに私の手を握ってくるの、面白いんだもん」
それで、どこ行く、と私は尋ねた。
私の家でも来ますか、と保野田は言った。
保野田の家まで歩きながら、私たちは演劇の話をした。手を繋いだまま。学園祭での公演と、冬期公演の話。保野田と二人きりになったことは意外と今までなかったんだな、と気づいた。私たちの意識は常に演劇に向いていたという共通点があった。そして、私は保野田の脚本を愛していたし、保野田は私の演技が大好きだった。それに気づいてなんだか私は嬉しくなってしまった。
家に着いた瞬間、靴も脱がずに保野田に口づけをした。後ろ手で鍵を閉めながら、保野田の小さな唇を舌でノックした。空いた隙間から舌を潜り込ませて、上顎をなぞる。引いた腰を抱き寄せて、そのまま舌を絡ませた。
誰かにキスをしたいと思ったのは初めてだった。
顔が見たい、と思って口を離すと、保野田は無表情のまま、瞳に劣情を宿していた。
「長いんですよ。始めるなら、ベッドに行きたいです」
「行こう」
私たちは放り投げるようにして靴を脱いで、ベッドへともつれ込んだ。片手を保野田のブラウスの裾からもぐり込ませてちょうど手のひら収まるぐらいの胸を触りながら、もう片手でボタンを外していく。
「なるほど、手際がいいですね」
「なんか、もったいないね」
「何がですか?」
「服を脱がすの」
「脱がさないとセックスできないですよね?」
そうとは限らないけれど、保野田にはオーソドックスなやり方を教えてあげるつもりだった。でも、黒いブラウスは保野田によく似合っていた。それを脱がしていくのは、まるで保野田を壊していっているみたいだと思った。
服を脱がして、直接肌に触れると、保野田は小さく声をあげた。可愛い声だった。今までセックスした人、つまり男たちは、喘ぎ声をほとんどあげないので、他人のいやらしい声を聞くと自分もいやらしい気持ちになるんだなと私は気づいた。あるいは、女の子の甘ったるい声だからいいのかもしれない。
私は保野田のいろんなところに触れて、いろんな声をあげさせた。じゅうぶん気持ちよくさせて満足させたところで、保野田は手順を逆になぞるようにして私のからだに触れた。保野田は今までにセックスしたどの男よりも私の体を知っているようだった。それは当然のことで、つまり女の体を知っているということだったから。
すべてが終わって、煙草に火を点けている保野田を見ながら、保野田の初めてが私でよかったなと思った。
「私、元彼たちがセックスしたがってた気持ち、初めて共感できた」
「どういうことですか?」
「女の子とセックスするのって楽しい。保野田、普段と全然違う声出すし」
「相坂さん、最初は演技してましたよね? でも途中からは違った」
ため息をついて、なんでも見抜いてしまう女にもたれかかった。
「よかったね、一瞬で上達できて」
「別に演技でもいいですけどね。相坂さんの演技は好きなので」
「ねえ、相坂でいいよ。それか麻純で。だいたいさ、同い年なのになんで敬語なの?」
「敬語のほうが楽なんですよ」
私は保野田の目を見つめた。
「私にはタメ口にしてよ」
「どうしてですか?」
「セックスと同じ。やったことないことは、したほうが経験になる」
あんなに楽しみだった遊びは、一瞬で色褪せた。屑な男たちなんて、結局はみんな同じだ。つついたら怒り出す玩具。今はもっと保野田のことを知りたい。保野田を崩していって、その中に何が潜んでいるのかみてみたい。
保野田が――有希の口角が歪むように上がっていく。決して無邪気とは言えないその笑顔から目が外せなくなる。私たちは鏡合わせのように見つめ合っている。
「いいよ、麻純」
※この作品は、百合SS Advent Calendar 2024 - Adventar 12/14分として作成されました。
アイスコーヒー(2023/12)
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今きたところ」
そんな有り触れた会話で私と林原君のデートは始まった。パーカーを着た林原君は、制服姿しか知らない私には新鮮で、それだけで胸がいっぱいになった。手を繋いで映画館へと歩き出す。私の好きな映画。私の好きなオムライスで少し遅いランチ。おしゃれなモニュメントの置かれた公園を散歩しながらとりとめもない話をする。夢にみた理想のデートだった。
だからこそ、ひとつずつ重ねるたびに、本当にこうなっちゃうんだ、という不安感が胸に突き刺さった。
大来さんってディズニー好きだったよね、と林原君は覚えていてくれていたし、女の子が好きそうなカフェをいくつか調べてくれていた。お姫様みたいに扱ってくれた。そうして欲しいとずっと思っていた。林原君が、私を世界でいちばん大切な人として扱ってくれたらどんなにいいだろうって。
どうしてそうも切実に願っていたかというと、叶わないと思っていたからだ。
「喉乾いたよね、なにか飲み物買ってくるけど、苦手なものとかある?」
ううん、特にないよ、そう答えながら、何も買ってこないで欲しいと願う。なんならもう解散でもいい。寂しくなるぐらいがちょうどいい。私が寂しがっていて、林原君にはへっちゃらな顔で、駄々をこねる私に困ったように笑ってほしい。
残念ながら現実はむしろ逆で、私はもう終わっていいと思っているのに、林原君がデートを続けようとしている。まるで林原君のほうが私のことを好きみたいだ。好き?
たった数日前に、私から告白したのに? それまで私のことなんか眼中になかったはずなのに?
林原君がアイスコーヒーを手に戻ってくる。むこうに見えるキッチンカーで買ってきてくれたらしい。この優しさが私を好きだからなんかじゃなくて、万人に向けられるものだったらいいのに。
ベンチに座って話しながら、林原君の好きなところを一つずつ数え上げる。
数学が得意なところ。
目尻が垂れていて優しく見える顔立ち。
たまに後ろ髪がぴょこんと跳ねているのが可愛い。……可愛いかな?
男子たちが下ネタで盛り上がっていても、困ったように笑って混ざらないところ。
どれも好き。うん、大丈夫。
「あのさ、大来さん」
「うん」
林原君が空になったカップをベンチに置く。そっと、私に顔を寄せた。
あ、キスされるんだ。
気持ち悪い、と思った。思考よりも先に、シンプルな嫌悪感が胸に広がってしまった。鳥肌がバレませんようにと祈りながら、目をつぶって落ちてくる唇を受け入れる。
どうしてキスなんかするんだろう。キスしてみたいから。それぐらいの軽い性欲で、好きでもない女の子にキスできる男の子ならよかったけれど、林原君がそんな男の子だったら好きにはならなかった。
林原君は私のことが好きなんだ。キスしたいと思うぐらいに。
どうして? 可愛くもなくて、勉強も運動もできない、愛想もない私なんかを、どうして好きになるんだろう。ただ告白されたから、それだけの理由で好きになれるものなの?
そんな混乱を押しつぶすように、胸の中で、だいじょうぶ、と呟く。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
今回は急だったからびっくりしたけれど、キスをされて嬉しいなと思うときが私にもくる。慣れるまで我慢すればだいじょうぶ。だって私は林原君のことが好きだから。
数学が得意で、優しい顔立ちで、穏やかな話し方をする林原君のことが好き。
私のことを好きなんかじゃない林原君のことが、好き。だった。
<12月読んだ主な本>
・明るい夜に出かけて/佐藤多 佳子
・蒼海館の殺人/阿津川 辰海
・近畿地方のある場所について/背筋
・あなたのための短歌集/木下 龍也
毎月なにか書くチャレンジを2022年11月から続けてきましたが、一旦終わりとします。
毎月書くというノルマを課すことで、アウトプットの練習になったと思います。これからは、一作一作により時間をかけて、練度の高い作品を作りたいと思っています。
お読みいただいた皆様、ありがとうございました。
薄明(2023/11)
大毅のアパートの隣にはガストがあって、そこが僕たちのたまり場だった。僕たちは最初そこで履修の組み方の相談をした。推奨される時間割は提示されていたものの、大毅はどこからか先輩の過去の時間割を入手してきて、これが楽単で、と指差しながら見せてくれた。どうして僕にだけ教えてくれたのか結局わからなかったけれど、きっと人生ってそういう風に大した理由もなく決まることがあるんだろう。
「で、この教授の授業は欠席取らないから、テストさえ受ければいいらしい」
「それってテストが難しいんじゃないの?」
「過去問さえ手に入れば楽勝」
大毅がブイサインをしながら、過去問の写真を見せてきた。
「へー、もう手に入れたんだ。早いね」
「まあ」
「どんな問題があるの?」
僕は写真を拡大しようと手を伸ばした。中指の反応が悪かったのか、テスト用紙の写真はスワイプされ、画像フォルダのひとつ前の写真が目に飛び込んできた。
裸の女の子の写真だった。
AVやそういう類の雑誌を撮ったものには見えなかった。構図も何も考えられていない素人感と、間違いなく生の人間を撮ったと思われる画質の良さがアンバランスだった。
「え、何これ」
「あー、これ。撮らせてくれたんだよね。誰にも見せないならいいよって」
「見せてるじゃん」
「そりゃね」
女の子は僕を、というかカメラをしっかりと見つめていた。何かを期待するような表情で。隠されることなく写っている胸は小ぶりで、形がよかった。手のひらにすっぽりと収まるぐらいだ。
僕はその子をしみじみと見つめて言った。
「馬鹿だね、この子」
たとえどんなに信頼できるような相手だったとしても、デジタルな画像が残ったらそれが何に使われるかなんてわからない。ましてや、大毅みたいな男ならなおさらだ。
僕の言い方が大毅のツボに嵌ったらしくて、あははと彼は大きな笑い声をあげた。
「そうなんだよ、馬鹿なんだよ。何でも言うこと聞いてくれんの」
「そんな子とどこで出会うの?」
「どこにだっているだろ、どこにだって。でもまあ、セックスしたかったら紹介するけど?」
僕はもう一度写真を見た。このおっぱいに触ってみたいと僕は思った。
「そうだね、お願いしようかな」
それから僕と大毅はいろいろなことをした。写真の女の子と3Pもしたし、街に出てナンパした女の子にレイプ・ドラッグを使ってセックスしたりもした。公園で酒を飲んで、勢いでカラオケ大会を始めたりとか。
僕が特に好きだったのは、女の子二人を誘って、スワッピングをしながら四人でセックスをすることだった。世の中には思ったよりも、複数人でセックスすることに興味がある女の子がいる。僕が次第に気づいたことは、そういう女の子たちの多くが、どちらかというとセックスしている相手、つまり僕や大毅ではなく、隣で犯されている女の子に興味を持っているということだった。僕や大毅はただの棒にすぎず、というのは言い過ぎかもしれないけれど、彼女たちのセックスの仲介役に近かった。
僕は一回出せば満足するけれど、大毅はヤッてもヤッても物足りないというタイプらしく、終盤は大毅が二人の女の子を相手にすることが多かった。僕はソファにだらけた姿勢で座って、そのセックスを眺めることになった。僕はその時間が割と好きだった。モノクロの無声映画を見ているみたいで。
その時間だけじゃなくて、大毅と馬鹿なことをやっている日々に夢中になっていた。
明日はどんなことをしようかと、ガストでドリンクバーを飲みながら計画をたてた。どんなことでも大毅とならワクワクした。それは今でも同じだ。でも。
「あーごめん、俺ちょっと電話出てくるわ」
「美咲ちゃん?」
「そ」
大毅がスマホを持って、ガストを出ていく。美咲という女の子と付き合いだしてから、大毅はセフレを全員切った。ガストでする話も、最近は単価のいいバイトとか、インターン先の狙い目とか、そういう話ばかりだ。
きっと一年前だったら、勝手に裏切られたように感じて、大毅をなじっていただろう。
けれど、大毅の――大毅と僕の関係性の変化を、寂しいとは思わない僕がいる。それはきっと、僕自身も変わったからだ。
ぼんやりと眺めた窓の外で、街路樹からはらはらと木の葉が落ちていった。この街にも冬が訪れようとしている。
終わりは唐突に訪れるのではなく、次第に薄れていくものなのだと僕は気づこうとしていた。
※blogで公開したのは12月ですが、初出はX(旧Twitter) 2023/11/30です。
<11月読んだ主な本>
・マリアビートル/伊坂幸太郎
・AX/伊坂幸太郎
迷い込み短歌(2023/10)
何処かに迷い込む話を短歌にしました。

※blogで公開したのは11月ですが、初出はTwitter(2023/10/31)です。
10月に3泊4日で台湾に旅行してきました。背景の写真はそのときに撮ったものです。
私が泊まった部屋は5階で、窓からはホテルと似たようなビルが続いているのが見えました。
台湾の街並みは想像していたより日本と変わらなくて、けれど看板の文字は明らかに日本語ではなくて読めず、「日本みたいだけど日本じゃない何処か」へ迷い込んだような気持ちになりました。ただ、読めないとはいっても、日本と似ている漢字も多く、なんとなく書いてある内容がわかったりするんですよね。
ホテルの部屋の窓を開けて眺めていると、ふと、「危険なので開けないでください」と英語で注意書きがあるのに気づきました。危険なのに大きく開閉できるような作りになっていて、安全性が利用者に委ねられていることも驚きでした。


<10月に読んだ主な本>
・領怪神犯1・2/木古 おうみ