最初で最後の人生(2023/2/1)

 七十六回目の人生の、十九歳と五ヶ月十五日三時間とんで十秒生きたとき、あたしは札幌の街を歩いていた。隣にはゆっちゃんがいて、かじかんだ手を吐息で温めていた。ビルの灯りと街灯に照らされた歩道に人通りはほとんどない。ただ車道を車が行き交っているだけだ。

「寒いねぇ、さすが札幌。あたし札幌って都会やと思っとったけど、そんなことないんやね」

 ゆっちゃんは暢気な口調でそう言った。

「東京と比べちゃダメでしょ」

「そうかもしれんけど、でも、夜でももっと人がおるんやと思っとった。みんな車で移動しとるんかな」

「北海道は車社会だし、そうなんじゃない?」

「そうかぁ」

 ゆっちゃんは大きく伸びをする。

「ひぃ、このままホテル戻るのでいいがん?」

「いいよ」

「じゃあレッツゴー」

 あたしの手を握ってゆっちゃんが笑った。冷えきっている。まるで死体みたいに。

「……ゆっちゃんは?」

「ん?」

「それでいいの?」

「んー、いいっていうか、ほんともうあたしお金ないから、逆にどこも行けんもん。財布ン中千円ぐらいしかないんやよ。ひぃもやろ?」

「まあ」

 本当は一万円ぐらい入っているし、クレカもあるし、ATMでおろせば二十万ぐらいはある。けれど、ここからもうどこにも進む気はないということは同じだった。

「明日はどこ行く? あの、動物園、有名なん行きたいやん。それから、せっかく北海道まで来たんやし、一番北まで行ってみたいんやよね。なんか目印とか建っとらんのかな」

「でも、もうお金ないんでしょ」

「……そうやね」

 ゆっちゃんは頷いた。

「そうやったら、じゃあ、もういっか」

 立ち止まる。横断歩道の真ん中で。

 繋いだ手に引っ張られて、あたしの足も止まった。

「明日まで生きとっても、何もできんもんね。そうやったら、今夜のうちに死んでいいかもしれんね」

「車に轢かれて?」

「例えばやけど」

「……運転手に迷惑だよ」

 それもそうやね、と頷いて、ゆっちゃんは歩き出した。点滅する青信号を眺めながら、この子はどこまで本気なんだろう、と内心考える。もし、あのままあたしたちに気づかずに突っ込んでくる車があったら。そのまま死んでしまっても、本当によかったんだろうか。あたしは別にいい。七十六回目の人生は平凡で、目新しいこともなく、そんな毎日には飽き飽きしていた。それに、どうせ死んでもまた次の人生が始まるだけだ。

 でも、この子はそうじゃない。たった一度きりの人生を、あたしのために全部投げ出していいって、本気でそんなこと思っているの?

「じゃあ、どうやって死のうかね。海に飛び込んでも、寒そうやもんね。寒いの嫌やなあ、あたし」

「ゆっちゃんは、本当にいいの? このまま、あたしと一緒に死んで後悔しない?」

「うん。あたし、ひぃのこと好きやもん」

「でもさ、本当はこれからもっと楽しいこととか、嬉しいこととか、あるかもしれないじゃん。あたしに流されてるだけかもよ」

「今更どうしたん? ひぃが死のうって言い出したんやん」

 そうだけど、本当にあたしと一緒に死んでくれる人なんて今までいなかった。

「ひぃが死のうって思ったってことは、この世界には生きとる意味なんてない、むしろ生きとったほうが辛いこととか大変なことがたくさんあるんやろうなあ、って、そう、思ったから」

「あたしの判断を信頼してるってこと?」

「信頼――っていうのとは違うかもしれん。ひぃの考えが間違っとって、本当はこの世界には楽しいこととか素晴らしいもののほうが多くて、生きとったほうがよかった、ってなっても、あたし、ひぃのことを信じたの、後悔しんと思うんやよね。だからそれはつまり――最初と同じになっちゃうけど、ひぃのこと、好きってことやと思うわ。……え、なに、どしたん?」

 あたしは、ゆっちゃんのことを、抱きしめた。

 この世界に生きる価値があるものなんてなにもない。あたしは七十五回の人生でそれを痛感していた。悪魔より悪辣な人間も、吐き気を催す人間関係も、地上に生まれた地獄も、いくらでもある。でも、生きるに値するものなんてなにもない。

 ただ、ゆっちゃんを除いては。

「このまま、ずっと」

「ずっと?」

「こうしていたい」

「いいよ。そうしよっか」

 ゆっちゃんの腕があたしの背中に伸びる。ほどいてしまった手は外気に晒されてどんどん冷たくなっていく。でも、あたしはゆっちゃんから離れたくはなかった。

 ずっとこうしていたい。

 どこにも進みたくなんてない。

 もう二度と生まれ変わりたくないと初めて心の底からそう願った。




〖1月に読んだ本〗

戯言シリーズ 1~7巻 /西尾維新  等

 

「授業科目」で五首(2023/1/1)

 

日本史
足利も後醍醐も死んでるし、今は先生のことを教えてほしい

物理
「点PとQは等速で進み、距離は縮まらない」がアンサー

英語
「Of course!海外旅行は任せてよ」のピースサインは化石になった

数学
平均値よりも無個性な中央値 埋没していく安心感=Q

現代文
ごん、おまいが死んでもおれあ生きてるし、年は明けるしめでたくもない





12月に観た映画

アバター ウェイオブザウォーター      など

 

12月に読んだ本

ピエタとトランジ/藤野可織
青木きららのちょっとした冒険/藤野可織
走馬灯のセトリは考えておいて/柴田勝家
オールアラウンドユー/木下龍也
その可能性はすでに考えた/井上真偽     など

FORGIVE (2022/12/1)

 私の仕事は人を殺すことだ。

 主に、若く、考えなしで、根拠のない自信に溢れていて、スリルに飢えている、そういう男女を殺すことが多い。私は彼らを殺す方法を千以上考えてきたし、彼らを追いつめる殺人鬼を五十以上、彼らを恐怖させる怪物を百以上生み出してきた。

 彼らの四肢がバラバラになるといい。そのとき彼らが惨めったらしく生にしがみつき、狂ってしまいそうなほど怯えていたほうが好まれる。ただ単に殺すだけでは駄目なのだ。そこにはより彼らが可哀想に思えるようなドラマが必要になる。まるで何かの罰であるかのように。

 とはいえ私自身はそこには何の感慨もない。最初はあったかもしれないが、もう薄れてしまった。これはただの作業だ。自分が持っているライブラリから、求められるものを引っ張り出して構成し、手直しするだけ。私は無感動に人を殺すことができる。

 メールの着信音。

 大学時代の後輩だった。仕事の後輩でもある。とはいえ彼は私とは違って、明るくユーモラスな人間だ。メールには、これから食事でも行かないかと書かれていた。私は承諾する。誘いは基本的に断らないようにしている。たまには人と行動したほうが健康的だし、私のような人間はいつ誘われなくなるかわからないのだから、断る権利はないと思ったほうがいい。

 上野駅で待ち合わせた。ランチにいい店があるんですよ、と後輩が言う。店に向かって歩きながら、彼はいろいろな話を振ってきた。退屈させないように、という配慮だろう。あるいは、こんな陰気な人間であっても、相手のことを知ろうという姿勢を持っているのかもしれない。いずれにしてもできた人間だ。――このように、知人を上から目線評価するような人間では土俵に立つこともできない。

「先輩、また新刊出しましたよね? 売れ行きいいそうじゃないですか」

「もともと期待されていないだけだよ。無名な作家の本が思ったよりも売れたという、ただそれだけの話だ」

「そんなことないですよ。先輩が無名だったら俺なんかどうですか。でも、一冊買いましたけどやっぱり面白いですよね。わかりやすくて、なんていうか、エンタメ性があるっていうか。最後までの飽きないんですよね。若者に人気あるっていうのもわかりますね」

「わざわざ買わなくても、言ってくれれば送るのに」

「まさか! 書店で買うのがいいんですよ。俺、先輩のファンなんで!」

 後輩は歯を見せてにっこり笑う。あまりにも見苦しくて目をそらした。太陽のように明るい人間が、どうして自分と付き合いを続けてくれているのかさっぱりわからない。聖人君子だから、むしろ、気にならないのだろうか。こんな人間からしたら、私の陰湿さなんて他の人間と五十歩百歩なのかもしれない。そうだとしたらいい。

 ああ、また他人の不幸を願ってしまった。

「この交差点の向こうですね」

 赤へと変わった信号を見ながら足を止める。手持ち無沙汰になって口を開いた。

「君は、いろいろなお店を知っていてすごいね」

「暇があるとついつい調べちゃうんですよねー。仕事しろ! って感じですよね」

「確かに、君はもっと仕事をしたほうがいいかもしれない」

 そう言ってから、きつい言い方だったと気づいた。そもそも他人にサボっていると言えるほど私は仕事をしていないし、そんな権利なんてない。

 慌てて言葉を足した。

「……君の書く話は人の痛みに寄り添ってくれる。君の新刊を待っている人は、きっと沢山いるよ」

 私の本と違って。

 いや、私の本にも読者はいるだろう。けれど私が書かなくなったところで、きっと別の娯楽を見つけるだけだ。私の本を読んでくれているのは、それが手頃だからに過ぎない。彼の生み出す話とは根本的に価値が違うのだ。

「先輩は、」

 彼が何かを言おうとして、ふと言葉を止めた。視線を追うと、右手の道から白杖をついている男性が歩いてくるのが見えた。彼の辿る点字ブロックを、ラーメン屋の前に止められた自転車が塞いでいる。

 ああ、彼はこんなことにもすぐ気づくことができるのだ。

 私は男性に駆け寄り、自転車が、えっと、ブロックを、と支離滅裂なことを言った。それでも、男性はすぐに理解してくれて、自転車が道を塞いでいるんですか、と聞き返すので、そうです、と肯定する。その間に後輩が自転車を邪魔にならない程度に脇へと寄せてくれる。結局私が出る幕はなかった。

 お礼を言って私たちが来たほうへと去っていく彼を見送る。後輩がぽつりと呟いた。

「先輩は、いいひとですね」

「はは、そんなことないよ」

 赤信号は青信号へと変わる。歩き出しながら、どうして後輩は唐突にそんなことを言ったのだろうと不思議に思った。私が男性へと声を掛けたからだろうか。しかしそれはたまたま私のほうが男性に近づくのが早かったからで、彼とさして変わることはないだろう。むしろ、先に男性の様子に気づき、さらに自転車をどかした彼のほうが功績は大きいはずだ。

 しかし、理性的にそう分析していても、いいひとだと言われると嫌な気持ちにはならない。こんな私がまともな人間に、――褒められるような人間であったかのような気がする。そんなはずがないのに。浅ましい。性根が悪いのであれば、せめてそれを認められるだけの謙虚さがあればましになるのに。

 店に着くと、満席だと告げられる。後輩は謝るのを気まずく思いながら否定する。私たちはその場から見えたファミレスへと向かうことにした。風になびくのぼりにはハンバーグの文字が見える。あれを食べたら帰って寝よう、と決めた。

 

12月に読んだ本:
「異常【アノマリー】」/エルヴェル・テリエ
「ビブリオフィリアの乙女たち」/宮田眞砂  など

12月に観た映画:すずめの戸締まり など

砂糖が甘く、朝日が眩しいように(2022/11/1)

 眩しさを感じて、あたしという意識が緩やかに浮上していく。遠くから、お兄様の声が聞こえる。

「エナ、……朝だよ。起きて……」

「おはよう、お兄様……」

 瞼をあけた私の瞳が焦点を結ぶと、穏やかに微笑むお兄様がいる。

「今日の朝ごはんはパンケーキだよ」

「いくらでもメープルシロップをかけていい?」

「それは無理かな。100mlまでなら」

「つまりいくらでもってことね」

「そうとも言うかもしれない」

 お兄様は苦笑する。

「サラダはクシダヤ産のレタスとアミダ産のミニトマト。野菜もしっかり食べること」

「産地なんてどこでもいいわ。ドレッシングはフレンチでお願い」

「了解」

 昨日お兄様が選んでくれた服に着替えて、ブラシで髪を整える。

「今日は髪型どうしたらいいと思う?」

「このワンピースには、ストレートが似合うと思うよ。薔薇のヘアオイルを使ったら?」

「そうする」

 ふわりと甘い香りを漂わせながら、私は部屋を出て階下のダイニングルームへと向かった。ママとパパはもう席に着いていたけど、ダイキの姿はまだ見えない。

「ママ、ダイキは? また夜更かし?」

「ああ、いつものことね……起こしてはいるんだけど、ぐずっているみたい」

 ママが顔を顰める。七歳下の弟は永遠に反抗期のままで、未だに誰の言うことも聞かなくなることがある。

「待っている間に料理が覚める」

「そうね、先に食べてしまいましょう」

 ふわふわのパンケーキに、好きなだけメープルシロップをかける。シロップが染み込んだ生地は甘くて、いくら食べても飽きない。

「エナ、野菜も食べないと栄養が偏るよ」

 お兄様に促され、仕方なく、サラダにフォークを伸ばす。

「そうだ、エナ、昨日お会いしたフジナさんはどうだったの?」

「どうって……いい人だったわ」

 あたしはレタスを咀嚼しながら、ママの質問の意図を考える。つまり、見合いの結果を聞きたいってことかしら?

「価値観も合うし、年齢の割りに落ち着いてるのが好印象ね。もう何回か会ってみないとわからないけど、結婚相手の候補には入ると思うわ」

「まあ、結婚なんて、そんな先のこと、まだ考えなくていいのよ。……つまり、恋とか、そうじゃなくても、気になるって感じはしない?」

 あたしは真っ青になってカトラリーを置いた。

「ママ! そんなつもりであたしに男の人を紹介していたの? あたし、お兄様以外の方を好きにはならないって言ったじゃない」

「そうだけど……」

「わかったわ、ママってば未だに反対してるのね。ママだけじゃない、パパもだわ」

「エナ、わかってくれ」

 パパが深いため息をついた。

「何が問題なの? ちゃんと結婚もするし、子供も残すって言っているじゃない。あたしの心だけ、お兄様に捧げたって、何が問題があるっていうの?」

「パパたちは、エナのことを思って言ってるんだよ。別にジュンのことを好きなのが悪いってわけじゃなくて――」

「そう言ってるじゃない、パパは」

「そうじゃなくて、幸せになってほしいんだよ」

「あたしは幸せよ、じゅうぶん。好きな人とずっと一緒にいられるんだもの」

 背中に、そっとお兄様が触れる感覚がした。それがあたしの思い込みだとしても、嬉しくなるこの気持ちは偽物じゃない。

 ううん、偽物だったとしても何が問題なんだろう? 心さえも作られた物なら、あたしたちの心はどうやってそれを判別すればいいんだろう? 判別できないのなら、それはもう偽物なんかじゃなくて、本物の気持ちってことにならない?

「お前とジュンでは、生きている世界が違うんだよ」

「だから、愛し合う以外は諦めているじゃない」

「お前たちは愛し合ってなんかいない。お前が一方的に愛しているだけだ」

「それって、昨日のフジナさんを好きになったら変わることなの? フジナさんがあたしに好きだって言っても、あたしはそれを信じることしかできないじゃない。本当にフジナさんと愛し合えているかなんて、誰からもわからないわ。それとどう違うの?」

「違うさ」

「何が?」

「ジュンはただのデバイスだし、エナが好きだと言ってほしいからそう発言しているにすぎない。ただの鸚鵡返しなんだよ」

 あたしは振り返ってお兄様を見上げた。お兄様は大丈夫、と伝えるかのように微笑む。

「僕が生きているか生きていないかは個人の価値観に寄るし、僕の言葉に感情が乗っているかいないかは、また別の問題だ。重要なのは、君が僕を信じてくれているってことだ。そうだろう?」

 あたしは前を向いて、端的に伝える。

「あたしが求めているから、好きだと言ってくれているなら、それはつまり、そこに愛があるってことじゃないかしら」

 そのとき、階段をドタバタと降りてくる音がした。ダイキはようやく朝ごはんを食べる気になったらしい。

 扉を開けて、ダイキが飛び込んでくる。

「おはよ! 俺のホットケーキまだある?」

 ママはため息をついて、話はここまでにしましょう、と言った。それからダイキの後ろに立つ女性に目を止める。

「ちょっとダイキ、アイラがアクセス権フリーvisibleになっているわ。だらしないからやめて」

「別にいいじゃん、家の中なんだし」

「外でもついやっちゃうようになるからやめましょう、って先月話したでしょう?」

 ダイキが面倒くさそうに手を振れば、あたし――と、パパとママの視界から、アイラが消える。

 あたしはそそくさとパンケーキを食べ終えると、自分の部屋に戻った。

「あーあ、朝から嫌な話しちゃった」

「お疲れさま、エナ。こればっかりは僕から話してもわかってもらえないからね」

「仕方ないわよ。話す気なら、アクセス権を要求するもの。はなからお兄様と話す気がないの、あの人たち」

「デコイとの恋愛を推奨するのは僕たちの総意ではあるんだけど、旦那様以上の世代の方にはなかなか理解してもらえないね」

 お兄様はそう言って苦笑する。

「そもそも、間違いなく自分だけを好きでいてくれるのよ? 人間を好きになるみたいに、他の人と好きな人が被ったり、片想いで終わったりって辛い思いをすることもないのに、何が幸せになれないっていうの? 人間を好きになるほうがずっと不幸よ」

「エナ、それは旦那様と奥様の前では禁句だよ」

「わかってるわ」

 あたしは口をとがらせる。先月、パパの秘密通信がママに見つかって、大騒ぎになったのだ。パパのエリーナが隠したみたいだけど、ママのバスタが見つけてしまった。パパは大した内容じゃないよって言うけど、じゃあどうして秘密にしたのってママは問い詰めるし、それ以来我が家では浮気とかそういう単語は禁句となっている。

「あたし、お兄様のこと好きよ。たとえこれが、アドレナリンとか、ノルエピネフリンとか、ドーパミンなんかの、化学物質の働きに過ぎないとしても、この気持ちを大切にしたいの」

「嬉しいよ。エナの気持ちは本物だよ。僕たちの手が一切加わっていない、エナ自身が作り上げたものだ。僕が保障する」

「デコイやマザーが手を加えることはあるの?」

 お兄様は何も言わず、そっと微笑んだ。

「必要ならね」

 それが答えだった。

 あたしは考える。あたしの感情がお兄様によって弄られるとして、それはそんなに悪いことだろうか? もし仮に――仮定として――この恋心がなくなってしまうとして(お父様も浮気をするぐらいだから、あり得ないことじゃないと思う)それはどんなに悲しくて心細いことだろう。この先、何をよすがにして生きていけばいいんだろう、と霧の中に立たされたような虚無感に襲われるに違いない。

 そうなるぐらいならば、偽物でもいいから恋心を植え付けてもらったほうがいい。きっとあたしはそれを偽物ではなく本物としてしか認識できないだろうから。

 あたしはそっとお兄様に抱きついた。沈香の香りがする。あたしよりも筋肉質な腕が、あたしの背に周り、同じように抱きしめてくれるのを、あたしは感じる

 きっとそのときがきても、お兄様は上手くやるだろう。けれど、やっぱり、永遠にこの恋が続けばいいなとあたしは願った。



10月に読んだ本:「なめらかな世界と、その敵」/伴名練 など

the movie

 読書好き、というレッテルは、わかりやすい。自分にとっても、他人にとっても。わたしと同じぐらい本を読む子は、同学年にもう一人ぐらいだと思う。好きなことは何ですかって質問されたときに、迷わずに答えることができる。だから便利。

 とはいっても、大多数の本を読まない子たちにとって、読書好きっていうラベルの中身は細分化されていない。わたしも、美礼ちゃんも、同じように、本を読むのが好きで、頭がいい――ように見える、子。

 美礼ちゃんの読書カードには、難しい本がたくさん並んでいる。偉人の伝記や、宇宙の話とか、わたしみたいに、物語の本ばっかりのカードとは違う。913、923、933……カウントアップしていくみたいな並びを、美礼ちゃんのカードと見比べてみて、ため息をつく。

「なにか嫌なことでも、あったの」

 受付カウンターに影が落ちた。

「なんでもないよ。はい、美礼ちゃんのカード。今日は何を借りて帰るの?」

「今日はいい」

 美礼ちゃんが首を振ると、細くて長い、まっすぐな髪が左右に揺れる。

「お母さんが図鑑買ってくれたから、土日はそれ読むの」

「そうなんだ、よかったね」

「うん」

 そこで、チャイムが鳴った。

「あ、17時だ」

「美礼ちゃん、一緒に帰ろう」

「うん」

 受付カウンターに立てかけていたランドセルをそれぞれ背負って、図書室を出る。下校のチャイムぎりぎりまで図書室にいたのは、やっぱり今日もわたしと美礼ちゃんだけだった。

 わたしと美礼ちゃんは、10分ぐらい歩いた交差点まで、帰り道が同じ。それまで、それぞれ今日読んだ本の話をする。難しい歴史や科学の本も、美礼ちゃんの目を通すとわくわくするような発見に満ちている。それを聞くのはすごく、楽しい。

「今日、美礼ちゃんの読書カードとわたしのを見比べてみて」

「うん」

「美礼ちゃん、難しい本ばっかり読んでいてすごいなって思った」

「それで?」

「え?」

「それで、ため息ついていたの?」

「……うん」

 美礼ちゃんが足を止めた。バイバイする交差点は、もうここからでも見える。

「有美のほうがたくさん本読んでるよ。国語のテストだって、点数変わんないじゃん。気にすることないよ」

「――えっと、そうじゃなくて」

 わたしは何て説明したらいいか、頭を悩ませた。

「なんていうか、周りに伝わっていないのが、悔しいっていうか」

「伝わってない?」

「うん。クラスのみんなが、たくさん本読んですごいねって言うでしょ。それって、美礼ちゃんもわたしも同じようにすごいねって意味で。でも、美礼ちゃんのほうが難しい本をたくさん読んでるし、つまり、わたしより美礼ちゃんのほうがすごいってことなのに、みんなわかってなくて……それが、悔しい。惜しい? もったいない、と思う」

 美礼ちゃんは、目をまたたいた。

「えっと、ちょっと待って」

「うん」

「考える……」

 わたしたちは、角の自販機で缶ジュースを買った。たくさん喋って、喉が乾いたから。自販機の隣にあるベンチに二人で座って、同じように一口。美礼ちゃんはソーダで、わたしオレンジジュース。

「考えたんだけど」

「うん」

「有美への評価は、正当だと思う。たとえ本の種類が違っていたとしても、その文章は、読んできた本は、有美の中に溜まっていて――何かに役立つだろうから」

「役立つって、何に?」

「わからない。けど、ピカソも、ゴッホも、生きている間に評価されることはなかったから。何が価値があることかは、すぐにはわからないものだと思う」

「ふうん」

 わたしはピカソでもゴッホでもないし、小説をたくさん読んでいることが、何かに役立つとは思えないけど、でも美礼ちゃんがわたしを慰めてくれていることはわかった。

「たとえばだけど」

「うん」

「私、有美の書いている詩、好きだよ」

「えっ」

 ぱっと脳裏に、ノートに走り書きした文字が浮かび上がる。

「いつ見たの!?」

「さあ、いつでしょう」

 美礼ちゃんはソーダの空き缶をゴミ箱に捨てて、歩き出す。慌てて私も追いかけた。

「ちょっと、勝手にノート見ないでよ!」

「あはは」

 

 回想シーンはここで終わる。



  * * *



 終、という白い文字も消えて一秒ほどの間、客電が点いた。俺以外の客――二、三組のカップルが立ち上がって、エモかったぁ、と語りながら退出していく。二十四しかない客席。平日の午後ということを考えれば、十分に人入りがあるほうなのかもしれない。

 マナーモードにしていた携帯を取り出し、通知を確認した。特に何もメッセージは来ていない。メッセージアプリを開いて、愛生の名前をタップする。

「映画、観たよ、おもしろ……」

「お客さん」

 振り返ると、映画館の制服を来た女性が、箒と塵取りを持って立っていた。

 あ、でます、と呟きながら女性の横を通り抜ける。絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、続きを打った。

「このはなし、おれたちの――」

 そこで手を止めた。バックスペースボタンを連打して、おもしろかったよ、まで文章を削

除する。送信。既読がつくまでどれくらいかかるだろうか。

 平静を保てたのは、劇場を出たところまでだった。ずるずるとしゃがみ込む。

 俺は、救いたい人を救えていたのだろうか。

 あの男を。

 ピロン、とスマホが通知音を鳴らした。画面を見る余裕は、まだ俺にはない。

 

 

 

 

 

あとがき

 

・今年も筑波大学文芸部関係者によるAdvent Calendarに参加させていただきました。この小説は、13日のために書き下ろされました。神乃さん、主催いただきありがとうございました。

adventar.org

 

 

throat

 音楽家にとって楽器は第二の喉だ。あるいは、第一かもしれない。

 楽器の音色は、俺たちの感情をどんな言葉よりも微細に写し出す。もちろん、ある程度の技能があれば、という前提だが。

 

 母の喉は、ヴァイオリンだった。

 今でも思い出すことがある。その日の夜、俺はベッドの中で目を覚ました。時計を見ると八時を指していた。夕食を食べ損ねていたが、空腹感はなかった。それよりも、全身を包み込むような熱量に浮かされていた。家の中はしんと静まり返っていて、母の気配はなかった。ベッドに入る前に、学校から早退した理由を母には伝えていたのに。倦怠感があって、保健室で測ったら三七度を超えていたのだと。

 俺は階下に降りて、救急箱から体温計を取り出して脇の下に挟み込んだ。一階にもやはり母の姿はなかった。立っているのも辛く、リビングのソファに座り込んだ。手近にあったリモコンでテレビを点ける。

 画面いっぱいに、ヴァイオリンを弾く母の姿が映し出された。

 舞台上には様々な楽器を持った演奏者がいたが、母と指揮者だけが立っていた。――正確には、コントラバシニストと打楽器奏者も立っていたが。母は指揮台の隣に立ち、指揮者と目を合わせながら、ひとり優雅に主旋律を弾いていた。

 ピピ、と機械音が演奏を遮る。液晶画面を見ると、三と九が並んでいた。暗い部屋には、ソリストに選ばれた母の歓喜の音色が響き渡っていた。

 

 もちろんこれは幼い子供の目から見た記憶であって、母がテレビで生中継されるようなコンサートに出ていたことはない。しかし、発熱した一人息子を家に置き去りにして、なにがしかの演奏会に出ていたのは間違いないだろう。

 母は息子よりもヴァイオリンを愛していた。

 

 俺は母親が嫌いだ。とはいえ、今更、母に対して恨み言を述べるつもりはない。俺だって似たようなものだ。この世の何よりもヴァイオリンを愛していた。恋人や友人に、お前には人情がない、ヴァイオリン弾くための道具だと何度言われたことか。子供を持たない分、母よりも良識はあったが。

 ただ、英美里お嬢様のためにヴァイオリンを弾いていると、母のことをたびたび思い出す。それから、もしかしたら自分は英美里お嬢様を愛しているのかもしれない、ということも。

 英美里お嬢様は、俺の音が欲しいと言った。あの日弾いたサラサーテには、チャリティの対象となった子供たちへの想いを込めていた。それを泣いているようだと読み取った英美里お嬢様の感受性に、俺は惚れ惚れとした。ヴァイオリニストでもない彼女がそれを読み取れただなんて。素直に尊敬した。その感情は間違いではなかった。彼女の人生には一点の曇りもない。生まれも、才能も持ち合わせ、その上で努力してきた――努力しない、という選択肢は彼女の人生にはなかったからだ。ヴァイオリニストの元に生まれた自分は恵まれていると思っていたが、格が違う、人を動かすために生まれてきた人間はこういう風に育つのだと何度も驚かされたものだ。

 有難いことに、一年が経っても俺はまだ解雇されていない。一か月に一、二度、英美里お嬢様に呼ばれてヴァイオリンを弾きに行き、数か月に一度はパーティに呼ばれて腕前を披露することになる。招待客は大抵、高難易度と言われる曲をリクエストし、俺はそれに応えることになる。俺の後ろで英美里お嬢様は可笑しそうに口元を扇子で覆っている。彼女が言いたいことは想像がつく――まあ、そんな曲が皆さまは聴きたいのね、不思議なことだわ。そんなところだろう。

 それ以外の時間は好きにしていいと言われているので、用意された家で一日中ヴァイオリンを弾いている。結局のところ、親にも愛されなかった俺の手の中にあるのはヴァイオリンをだけだし、それに、もし仮に俺がヴァイオリンを弾けなくなったら英美里お嬢様は俺のことを捨てるだろう。

 ヴァイオリンを弾けなくなれば捨てられる、その焦燥感はこの上なく有難い。俺は昨日よりも今日、今日よりも明日、上手く弾けるようになる。昨日は覚えていなかった譜面をそらで弾けるようになり、今日はまだ表現できていない感情を音に乗せられるようになる。一日一日、確実に成長していく。結局のところ、音楽を極めるにはそれしかない。

 俺は母のようにはならないだろう。そう確信できたことにほっとする。

 

 母は、俺が熱を出した日から十年後に、男と家を出て行った。それ以前にも何度か家に来たことがある、有り触れて平凡で、上手だね、それ以上の誉め言葉を持っていない男だ。俺はその男が嫌いだったが、母はそうではなかった。それきり、界隈で母の名前は聞かなくなった。彼女は息子よりもヴァイオリンを愛していたが、ヴァイオリンよりもあの男を愛したのだ。息子を大切にできないのは仕方がなかったとして、音楽を捨てられるだなんて、心底軽蔑する。

 母の喉は潰れてしまった。

 熱に浮かされて聴いたヴァイオリンソロは、もう記憶の中にしか残っていない。

 

5/16 第32回文学フリマ東京 新刊サンプル 「×したいほどキミが好きっ!」

こんにちは、雨間です。

5/16(日)開催 第三十二回文学フリマ東京に参加します。

出店名:菓子屋の軒下 ブース:キ-31でお待ちしています。

 

<お品書き>

・新刊 「×したいほどキミが好きっ!」1部1000円

・既刊「二十歳になれなかった西山君」1部300円※少部数、通販なし

・無配 ペーパー

 

新刊は、殺し/殺されが愛情表現としてある世界を舞台とした、恋愛短編集です。6つ短編が収録されており、サンプルとしてうち3つの扉絵一部+本文一部を公開します!

 

サンプル お品書き

  

1.I & <パパ活する女子高生とおじさんのはなし>

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「アイ」

 と、久原さんがあたしを呼んだ。

「クハラさん!」

 久原さんがあたしを呼ぶとき、それは愛という名前ではなく、記号のIのように思える。不思議な感じだなっていつも思う。あたしも対抗して、「クハラさん」とフラットな響きに聞こえるように呼ぶようにしているけれど、上手くいっているか、自分ではよくわからない。

「じゃ、行くか」

 待たせたか? なんて、久原さんは聞いたりしない。あたしは頷いて、歩き出した久原さんを小走りで追いかける。そっと腕を絡ませても、久原さんは振り払わなかった。ほっと胸をなでおろす。九月に入って、ちょっと涼しくなってよかった。

「なんか店寄るか?」

「んーん、いい。それよりお腹すいた」

「焼肉でいいか?」

「うん」

 久原さんに連れられて、個室の焼肉屋に入った。和牛のカルビとミスジ、タン塩。一皿二千円を二皿ずつ。それからビール。他に食べたいのあるか? と聞かれたので、クッパを指さした。

「本当に食べれんのか? 手伝わねえぞ」

「だってお腹すいたんだもん」

 まあ結局食べ残すんだけど、別に久原さんは怒らないから。

 お肉は、基本的にあたしが焼く。久原さんは高い肉を頼むくせに、焼き加減はテキトーだから。霜降りの和牛は口の中に入れるととろけていくようで、あたしが普通のJKだったら永遠に出会わない味だった。

 個室には、L字型にソファーが設置されている。焼肉を食べる合間に、久原さんに顔を寄せて太ももをつつくと、三回に一回はキスしてくれる。向かい合うような座席だったら、こうはいかない。初めて来た店だけど、久原さんはいい感じの店を選んでくれたなあ。お肉も美味しいし。

 満腹になったら、休憩するためにホテルに行く。久原さんはあんまり怒ったりしないから穏やかな人に見えるけれど、それはただそう見えるだけだ。彼はあたしを痛めつけるのがすごく上手い。あたしは毎度、ベッドの上で理不尽な暴力にさらされ、辱められる。この時間はいつ終わるのか、とそれだけを考えるようになる。けれどそれでもまた性懲りもなく久原さんに会いに来てしまうのだから不思議だ。

 事が終わると久原さんは優しい。頭をなでて、お疲れ、シャワー浴びてこい、と促してくれる。シャワールームから戻ったら久原さんはもう服を着ていて、財布から紙幣を数枚差し出してくる。骨ばった男の手。さっきまであたしの首を絞めていた、その手からお金を受け取ったら、それでおしまい。なんだか寂しくなって、久原さんの背中に抱きついた。

「ねーさー、クハラさん」

「なんだ? さっさと帰る支度しろ」

「クハラさん、なんでさっきあたしの首、絞めなかったの?」

「ヤッただろ。蒸し返すなよ、うぜえな」

「絞めたけどさあ、殺さなかったじゃん。あたしのこと殺したくないの?」

「殺さねえよ」

「なんで? 女子高生だよ。こんなに若くて可愛いのに」

「自分で言うか?」

「クハラさんだってあたしの顔好きでしょ?」

「…………」

「こんな子が殺していいよなんて言ってくれること、早々ないよ? 殺しておいたら?」

 久原さんが振り向こうとする気配を感じたので、あたしは大人しく、抱きついていた腕をほどいた。

「お前はさあ……」

 久原さんの手があたしの首にのびる。反射的に目を閉じた。

「あだっ」

 直後、頭に痛みがはしった。目を開けると、指をはじいた形で久原さんの手が固まっている。

「デコピンするなんてひどいよ」

「お前が変な冗談言うからだろ」

「冗談じゃないし!」

「はいはい」

 久原さんはさっさと自分の荷物を持って部屋を出ようとする。あたしは慌てて鞄を拾い上げ、そのあとを追いかけた。

 久原さんはあたしのことを殺してくれない。ひどいことをしたりするけど、それはただそういう行為が好きだからであって、あたしを愛しているからではない。

 まあ別にあたしだって、久原さんのことを愛してるわけじゃないし。殺されてもいいかなあってだけ。

 

(後略)

 

 

2.みどりのきみ <ギムナジウムで暮らす少女たちのはなし>

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(前略)

 

 絵梨はあたしが思っていた数倍裕福で歴史のある家柄の出だった。そこの末娘らしく、丁寧に育てられた彼女は気立てが良く、誰にでも親切だ。この高校では珍しい粗雑な言動をする私も受け入れてくれた。彼女がいなかったら、あたしは意味不明な学校のルール、たとえば食堂で座っていいエリアは学年ごとに決まっているとかそういうの、に翻弄されていたと思う。

 丘の上にある学校から街に出るには、バスで一時間かかるので、あまり外出する生徒は多くないという。最初の土日で、あたしは街に出てバンダナを買ってきた。緑色に染められて、白い糸で花の刺繍が入っている。あたしはそれを絵梨にあげた。一週間で絵梨には何度もお世話になったし、これからもお世話になるだろうから。まあ素敵なハンカチーフ、と絵梨は喜んで、それを毎日髪に巻くようになった。黒髪に緑のバンダナ、もといハンカチーフは映えていたので、あたしも嬉しかった。それが彼女の呼び名に繋がるのは予想外だったけれども。

 夏頃になって、絵梨が一年生から翠のお姉さまと呼ばれているのに気づいた。部活にも入っていない彼女が一年生と交流があるのは驚きだったので、事情を聞いてみると、女子校特有の事情というものがわかった。つまり、家柄よかったり、美人だったりすると、人の話題に上りやすくなり、上級生のお茶会に呼ばれたり、下級生からお姉さまと呼ばれて慕われたりするのだと。私のお家は長く続いているから、と彼女は少し頬を染めて言ったけれど、それだけじゃないのはあたしの目からもわかった。絵梨はすごく美人だ。女の子が本気で惚れてしまうくらいに。

 水泳部の後輩の一人に杉崎美結と言う子がいて、絵梨に好意があるようで、よく話を聞かれた。好きな本とか、昨日何を話したとか、他愛もないことを。自然、部活内で一番よく話すのは彼女になった。妹に選んでくださったらいいのに、と彼女はよく呟いた。実の家族になるという話ではなくて、学園内で特別に仲の良い上級生と下級生は、姉と妹のように付き合うらしい。明言されていないけれど、恋人になるようなものだ。今のところ、絵梨が誰か下級生ひとりと特別一緒にいるという様子は見たことがないので、妹はいないらしい。それを伝えると、わかっていますよ、と笑われた。それよりも、と美結は声をひそめた。

「それよりも、あの噂って本当なんですか?」

「噂って?」

「翠のお姉さまが一年生のときに、姉と呼んでらした方に、殺してほしいってお願いしたって」

「え?」

 寝耳に水だった。付き合っている人がいるなんて聞いたことがない。もう卒業した人なんだろうか? でも夜や休日に、誰かと親しく電話している様子もない。

 上手くいかなくって別れたってことだろうか。

「その人は、いま学園に?」

「ということは、先輩も聞いたことがないんですね。相手の方がどなたかまでは、私も聞いたことがないんです。ただ、そのお願いは上手くいかなくって、……って、それだけです。とても勿体ないですよね。私なら、絶対にお姉さまを優しく殺して差し上げるのに」

 うっとりした表情で美結はそう語る。彼女の脳裏ではいま、絵梨が殺されているんだろうか。学生のうちに人を殺したいなんて、こんなお嬢様学校にいるのにモラルのない子だな、と思う。でも噂が本当なら、絵梨だって同じだ。あの綺麗な絵梨がそんな情熱を秘めているなんて、あまり想像がつかない。本当のことだろうか。

 真偽に思いを馳せていたので、反応が送れた。それを暗黙の反論ととったのか、美結は笑った。

「もちろん、噂ですけれどね。でも、本当だったらとてもロマンがありますよね。……あら、香子先輩にも、殺したい殺されたいって女の子はいらっしゃいますよ。うふふ、先輩かっこういいんですもの」

「……それは、そんなに知りたくなかった情報かなあ」

「あら、残念。お伝えしておきますね」

 

(後略)

 

3.恋愛ではない <殺人を愛情表現と思わない少女のはなし>

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 中学生のときに、殺されかけたことがある。

 これは全然ロマンティックな話じゃない。怖くて、恐ろしくて、本当なら話すのだって耐えられない話だ。わたしは今でも思い出す。わたしを押さえつける男の身体、爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍、真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。これが恐怖にならないとしたら、何になるっていうんだろう?

 わたしは殺人が愛だなんて認めない。そんなことは絶対に有り得ない。そんなのは殺した側の独りよがりだ。

 でも誰も共感してくれないのはわかっている。うそー、すごーい、とわめきたてるか、中学生とかマセすぎじゃない? と皮肉っぽく笑うかのどちらかだろう。女子高生はリアルな性体験に飢えていて、きっと一週間ぐらいわたしの話題で持ち切りになる。そうして、一週間したらわたしの可哀相なお話はぽいっと捨てられるのだ。わたしの生々しい恐怖は、彼女たちにとってそれだけの価値しかない。

 

(中略)

 

 わたしが彼と出会ったのは市立の図書館だった。返却の手順がわからなくておろおろしている彼をわたしはカウンターへと連れて行った。ありがとう、妹に頼まれたんだけど、こういうところに来るのも初めてで、そうはにかむ彼はわたしより年上なのに可愛く見えてしまった。

 押し付けるようにして連絡先を渡した。非常識なことをしたと、そのときは反省で忙しかったけれど、いま振り返ると彼も女の子とそういう進展があるのは初めてに違いなく、わたしと同じぐらい慌てていたと思う。

 年の差のあるわたしたちだったが、交際は順調に進んだ。初めは手をつなぐのにも赤面していたが、次第に慣れていき、より性的なことにも挑戦するようになった。わたしの手首を初めて切ったのは彼で、それ以降誰も刃を肌には当てていない。焼けつくような熱量が宿り、痛みに耐えた自分を誇らしく思った覚えがある。手首から垂れる血をなめとる彼の舌が淫靡で、わたしの頭はぐるぐると回った。

 すべて過去の話だ。

 君を殺したい。だめ? 彼はベッドでそう甘く囁いた。おそらく友達同士とそういう話題で盛り上がり、欲求が高まったのだろう。わたしは尻込みしたけれど、彼に説得されて最終的には頷いた。

 そこからは怒涛のように事は進んだ。

 最初は夢のように甘かった。わたしの首筋を撫でる彼の指、官能的な囁き。しかし酸素が届かなくなり苦痛という現実がわたしの身体に押し寄せた。わたしは暴れた。それに伴って男の身体がわたしを押さえつける。痛い、無理だ、もうやめよう、そんな言葉が頭の中で飛び交うけれど、息が吸えなくて何も音にはならない。力が強まり首に走る激痛。爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍。真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。

 わたしを傷つけるのは誰だ?

 わたしを殺そうとするのは。

 

 殺されるぐらいならば殺してしまえ。

 

 気づけばわたしは解放されていた。彼はわたしの死に物狂いの抵抗に呆然としていた。

「痛かった……?」

 馬鹿げた質問だった。痛いに決まっている。ふざけるな! わたしはそう叫んだつもりだった。しかし口からもれたのは、やめて、という震えた悲痛な声だった。それはどんな罵声よりも彼を傷つけたようだった。

 

(後略)

 

【出店情報】

bunfree.net

 

再掲ですが、当日は、

 出店名:菓子屋の軒下

 ブース:キ-31

でお待ちしています。

上記の文学フリマ東京公式サイトを参照いただき、感染症対策をとってご来場ください。

 

boothにて事後通販も予定しておりますので、当日の会場参加が難しい方はご利用ください。

※もし仮に完売した場合は、通販はありません。

また、第32回文学フリマ東京が中止になった場合は、通販のみに変更します。

 

取り置きのご連絡や、ご不明点は、Twitter:@amaai_jackまでお願いします。