throat

 音楽家にとって楽器は第二の喉だ。あるいは、第一かもしれない。

 楽器の音色は、俺たちの感情をどんな言葉よりも微細に写し出す。もちろん、ある程度の技能があれば、という前提だが。

 

 母の喉は、ヴァイオリンだった。

 今でも思い出すことがある。その日の夜、俺はベッドの中で目を覚ました。時計を見ると八時を指していた。夕食を食べ損ねていたが、空腹感はなかった。それよりも、全身を包み込むような熱量に浮かされていた。家の中はしんと静まり返っていて、母の気配はなかった。ベッドに入る前に、学校から早退した理由を母には伝えていたのに。倦怠感があって、保健室で測ったら三七度を超えていたのだと。

 俺は階下に降りて、救急箱から体温計を取り出して脇の下に挟み込んだ。一階にもやはり母の姿はなかった。立っているのも辛く、リビングのソファに座り込んだ。手近にあったリモコンでテレビを点ける。

 画面いっぱいに、ヴァイオリンを弾く母の姿が映し出された。

 舞台上には様々な楽器を持った演奏者がいたが、母と指揮者だけが立っていた。――正確には、コントラバシニストと打楽器奏者も立っていたが。母は指揮台の隣に立ち、指揮者と目を合わせながら、ひとり優雅に主旋律を弾いていた。

 ピピ、と機械音が演奏を遮る。液晶画面を見ると、三と九が並んでいた。暗い部屋には、ソリストに選ばれた母の歓喜の音色が響き渡っていた。

 

 もちろんこれは幼い子供の目から見た記憶であって、母がテレビで生中継されるようなコンサートに出ていたことはない。しかし、発熱した一人息子を家に置き去りにして、なにがしかの演奏会に出ていたのは間違いないだろう。

 母は息子よりもヴァイオリンを愛していた。

 

 俺は母親が嫌いだ。とはいえ、今更、母に対して恨み言を述べるつもりはない。俺だって似たようなものだ。この世の何よりもヴァイオリンを愛していた。恋人や友人に、お前には人情がない、ヴァイオリン弾くための道具だと何度言われたことか。子供を持たない分、母よりも良識はあったが。

 ただ、英美里お嬢様のためにヴァイオリンを弾いていると、母のことをたびたび思い出す。それから、もしかしたら自分は英美里お嬢様を愛しているのかもしれない、ということも。

 英美里お嬢様は、俺の音が欲しいと言った。あの日弾いたサラサーテには、チャリティの対象となった子供たちへの想いを込めていた。それを泣いているようだと読み取った英美里お嬢様の感受性に、俺は惚れ惚れとした。ヴァイオリニストでもない彼女がそれを読み取れただなんて。素直に尊敬した。その感情は間違いではなかった。彼女の人生には一点の曇りもない。生まれも、才能も持ち合わせ、その上で努力してきた――努力しない、という選択肢は彼女の人生にはなかったからだ。ヴァイオリニストの元に生まれた自分は恵まれていると思っていたが、格が違う、人を動かすために生まれてきた人間はこういう風に育つのだと何度も驚かされたものだ。

 有難いことに、一年が経っても俺はまだ解雇されていない。一か月に一、二度、英美里お嬢様に呼ばれてヴァイオリンを弾きに行き、数か月に一度はパーティに呼ばれて腕前を披露することになる。招待客は大抵、高難易度と言われる曲をリクエストし、俺はそれに応えることになる。俺の後ろで英美里お嬢様は可笑しそうに口元を扇子で覆っている。彼女が言いたいことは想像がつく――まあ、そんな曲が皆さまは聴きたいのね、不思議なことだわ。そんなところだろう。

 それ以外の時間は好きにしていいと言われているので、用意された家で一日中ヴァイオリンを弾いている。結局のところ、親にも愛されなかった俺の手の中にあるのはヴァイオリンをだけだし、それに、もし仮に俺がヴァイオリンを弾けなくなったら英美里お嬢様は俺のことを捨てるだろう。

 ヴァイオリンを弾けなくなれば捨てられる、その焦燥感はこの上なく有難い。俺は昨日よりも今日、今日よりも明日、上手く弾けるようになる。昨日は覚えていなかった譜面をそらで弾けるようになり、今日はまだ表現できていない感情を音に乗せられるようになる。一日一日、確実に成長していく。結局のところ、音楽を極めるにはそれしかない。

 俺は母のようにはならないだろう。そう確信できたことにほっとする。

 

 母は、俺が熱を出した日から十年後に、男と家を出て行った。それ以前にも何度か家に来たことがある、有り触れて平凡で、上手だね、それ以上の誉め言葉を持っていない男だ。俺はその男が嫌いだったが、母はそうではなかった。それきり、界隈で母の名前は聞かなくなった。彼女は息子よりもヴァイオリンを愛していたが、ヴァイオリンよりもあの男を愛したのだ。息子を大切にできないのは仕方がなかったとして、音楽を捨てられるだなんて、心底軽蔑する。

 母の喉は潰れてしまった。

 熱に浮かされて聴いたヴァイオリンソロは、もう記憶の中にしか残っていない。

 

5/16 第32回文学フリマ東京 新刊サンプル 「×したいほどキミが好きっ!」

こんにちは、雨間です。

5/16(日)開催 第三十二回文学フリマ東京に参加します。

出店名:菓子屋の軒下 ブース:キ-31でお待ちしています。

 

<お品書き>

・新刊 「×したいほどキミが好きっ!」1部1000円

・既刊「二十歳になれなかった西山君」1部300円※少部数、通販なし

・無配 ペーパー

 

新刊は、殺し/殺されが愛情表現としてある世界を舞台とした、恋愛短編集です。6つ短編が収録されており、サンプルとしてうち3つの扉絵一部+本文一部を公開します!

 

サンプル お品書き

  

1.I & <パパ活する女子高生とおじさんのはなし>

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「アイ」

 と、久原さんがあたしを呼んだ。

「クハラさん!」

 久原さんがあたしを呼ぶとき、それは愛という名前ではなく、記号のIのように思える。不思議な感じだなっていつも思う。あたしも対抗して、「クハラさん」とフラットな響きに聞こえるように呼ぶようにしているけれど、上手くいっているか、自分ではよくわからない。

「じゃ、行くか」

 待たせたか? なんて、久原さんは聞いたりしない。あたしは頷いて、歩き出した久原さんを小走りで追いかける。そっと腕を絡ませても、久原さんは振り払わなかった。ほっと胸をなでおろす。九月に入って、ちょっと涼しくなってよかった。

「なんか店寄るか?」

「んーん、いい。それよりお腹すいた」

「焼肉でいいか?」

「うん」

 久原さんに連れられて、個室の焼肉屋に入った。和牛のカルビとミスジ、タン塩。一皿二千円を二皿ずつ。それからビール。他に食べたいのあるか? と聞かれたので、クッパを指さした。

「本当に食べれんのか? 手伝わねえぞ」

「だってお腹すいたんだもん」

 まあ結局食べ残すんだけど、別に久原さんは怒らないから。

 お肉は、基本的にあたしが焼く。久原さんは高い肉を頼むくせに、焼き加減はテキトーだから。霜降りの和牛は口の中に入れるととろけていくようで、あたしが普通のJKだったら永遠に出会わない味だった。

 個室には、L字型にソファーが設置されている。焼肉を食べる合間に、久原さんに顔を寄せて太ももをつつくと、三回に一回はキスしてくれる。向かい合うような座席だったら、こうはいかない。初めて来た店だけど、久原さんはいい感じの店を選んでくれたなあ。お肉も美味しいし。

 満腹になったら、休憩するためにホテルに行く。久原さんはあんまり怒ったりしないから穏やかな人に見えるけれど、それはただそう見えるだけだ。彼はあたしを痛めつけるのがすごく上手い。あたしは毎度、ベッドの上で理不尽な暴力にさらされ、辱められる。この時間はいつ終わるのか、とそれだけを考えるようになる。けれどそれでもまた性懲りもなく久原さんに会いに来てしまうのだから不思議だ。

 事が終わると久原さんは優しい。頭をなでて、お疲れ、シャワー浴びてこい、と促してくれる。シャワールームから戻ったら久原さんはもう服を着ていて、財布から紙幣を数枚差し出してくる。骨ばった男の手。さっきまであたしの首を絞めていた、その手からお金を受け取ったら、それでおしまい。なんだか寂しくなって、久原さんの背中に抱きついた。

「ねーさー、クハラさん」

「なんだ? さっさと帰る支度しろ」

「クハラさん、なんでさっきあたしの首、絞めなかったの?」

「ヤッただろ。蒸し返すなよ、うぜえな」

「絞めたけどさあ、殺さなかったじゃん。あたしのこと殺したくないの?」

「殺さねえよ」

「なんで? 女子高生だよ。こんなに若くて可愛いのに」

「自分で言うか?」

「クハラさんだってあたしの顔好きでしょ?」

「…………」

「こんな子が殺していいよなんて言ってくれること、早々ないよ? 殺しておいたら?」

 久原さんが振り向こうとする気配を感じたので、あたしは大人しく、抱きついていた腕をほどいた。

「お前はさあ……」

 久原さんの手があたしの首にのびる。反射的に目を閉じた。

「あだっ」

 直後、頭に痛みがはしった。目を開けると、指をはじいた形で久原さんの手が固まっている。

「デコピンするなんてひどいよ」

「お前が変な冗談言うからだろ」

「冗談じゃないし!」

「はいはい」

 久原さんはさっさと自分の荷物を持って部屋を出ようとする。あたしは慌てて鞄を拾い上げ、そのあとを追いかけた。

 久原さんはあたしのことを殺してくれない。ひどいことをしたりするけど、それはただそういう行為が好きだからであって、あたしを愛しているからではない。

 まあ別にあたしだって、久原さんのことを愛してるわけじゃないし。殺されてもいいかなあってだけ。

 

(後略)

 

 

2.みどりのきみ <ギムナジウムで暮らす少女たちのはなし>

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(前略)

 

 絵梨はあたしが思っていた数倍裕福で歴史のある家柄の出だった。そこの末娘らしく、丁寧に育てられた彼女は気立てが良く、誰にでも親切だ。この高校では珍しい粗雑な言動をする私も受け入れてくれた。彼女がいなかったら、あたしは意味不明な学校のルール、たとえば食堂で座っていいエリアは学年ごとに決まっているとかそういうの、に翻弄されていたと思う。

 丘の上にある学校から街に出るには、バスで一時間かかるので、あまり外出する生徒は多くないという。最初の土日で、あたしは街に出てバンダナを買ってきた。緑色に染められて、白い糸で花の刺繍が入っている。あたしはそれを絵梨にあげた。一週間で絵梨には何度もお世話になったし、これからもお世話になるだろうから。まあ素敵なハンカチーフ、と絵梨は喜んで、それを毎日髪に巻くようになった。黒髪に緑のバンダナ、もといハンカチーフは映えていたので、あたしも嬉しかった。それが彼女の呼び名に繋がるのは予想外だったけれども。

 夏頃になって、絵梨が一年生から翠のお姉さまと呼ばれているのに気づいた。部活にも入っていない彼女が一年生と交流があるのは驚きだったので、事情を聞いてみると、女子校特有の事情というものがわかった。つまり、家柄よかったり、美人だったりすると、人の話題に上りやすくなり、上級生のお茶会に呼ばれたり、下級生からお姉さまと呼ばれて慕われたりするのだと。私のお家は長く続いているから、と彼女は少し頬を染めて言ったけれど、それだけじゃないのはあたしの目からもわかった。絵梨はすごく美人だ。女の子が本気で惚れてしまうくらいに。

 水泳部の後輩の一人に杉崎美結と言う子がいて、絵梨に好意があるようで、よく話を聞かれた。好きな本とか、昨日何を話したとか、他愛もないことを。自然、部活内で一番よく話すのは彼女になった。妹に選んでくださったらいいのに、と彼女はよく呟いた。実の家族になるという話ではなくて、学園内で特別に仲の良い上級生と下級生は、姉と妹のように付き合うらしい。明言されていないけれど、恋人になるようなものだ。今のところ、絵梨が誰か下級生ひとりと特別一緒にいるという様子は見たことがないので、妹はいないらしい。それを伝えると、わかっていますよ、と笑われた。それよりも、と美結は声をひそめた。

「それよりも、あの噂って本当なんですか?」

「噂って?」

「翠のお姉さまが一年生のときに、姉と呼んでらした方に、殺してほしいってお願いしたって」

「え?」

 寝耳に水だった。付き合っている人がいるなんて聞いたことがない。もう卒業した人なんだろうか? でも夜や休日に、誰かと親しく電話している様子もない。

 上手くいかなくって別れたってことだろうか。

「その人は、いま学園に?」

「ということは、先輩も聞いたことがないんですね。相手の方がどなたかまでは、私も聞いたことがないんです。ただ、そのお願いは上手くいかなくって、……って、それだけです。とても勿体ないですよね。私なら、絶対にお姉さまを優しく殺して差し上げるのに」

 うっとりした表情で美結はそう語る。彼女の脳裏ではいま、絵梨が殺されているんだろうか。学生のうちに人を殺したいなんて、こんなお嬢様学校にいるのにモラルのない子だな、と思う。でも噂が本当なら、絵梨だって同じだ。あの綺麗な絵梨がそんな情熱を秘めているなんて、あまり想像がつかない。本当のことだろうか。

 真偽に思いを馳せていたので、反応が送れた。それを暗黙の反論ととったのか、美結は笑った。

「もちろん、噂ですけれどね。でも、本当だったらとてもロマンがありますよね。……あら、香子先輩にも、殺したい殺されたいって女の子はいらっしゃいますよ。うふふ、先輩かっこういいんですもの」

「……それは、そんなに知りたくなかった情報かなあ」

「あら、残念。お伝えしておきますね」

 

(後略)

 

3.恋愛ではない <殺人を愛情表現と思わない少女のはなし>

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 中学生のときに、殺されかけたことがある。

 これは全然ロマンティックな話じゃない。怖くて、恐ろしくて、本当なら話すのだって耐えられない話だ。わたしは今でも思い出す。わたしを押さえつける男の身体、爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍、真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。これが恐怖にならないとしたら、何になるっていうんだろう?

 わたしは殺人が愛だなんて認めない。そんなことは絶対に有り得ない。そんなのは殺した側の独りよがりだ。

 でも誰も共感してくれないのはわかっている。うそー、すごーい、とわめきたてるか、中学生とかマセすぎじゃない? と皮肉っぽく笑うかのどちらかだろう。女子高生はリアルな性体験に飢えていて、きっと一週間ぐらいわたしの話題で持ち切りになる。そうして、一週間したらわたしの可哀相なお話はぽいっと捨てられるのだ。わたしの生々しい恐怖は、彼女たちにとってそれだけの価値しかない。

 

(中略)

 

 わたしが彼と出会ったのは市立の図書館だった。返却の手順がわからなくておろおろしている彼をわたしはカウンターへと連れて行った。ありがとう、妹に頼まれたんだけど、こういうところに来るのも初めてで、そうはにかむ彼はわたしより年上なのに可愛く見えてしまった。

 押し付けるようにして連絡先を渡した。非常識なことをしたと、そのときは反省で忙しかったけれど、いま振り返ると彼も女の子とそういう進展があるのは初めてに違いなく、わたしと同じぐらい慌てていたと思う。

 年の差のあるわたしたちだったが、交際は順調に進んだ。初めは手をつなぐのにも赤面していたが、次第に慣れていき、より性的なことにも挑戦するようになった。わたしの手首を初めて切ったのは彼で、それ以降誰も刃を肌には当てていない。焼けつくような熱量が宿り、痛みに耐えた自分を誇らしく思った覚えがある。手首から垂れる血をなめとる彼の舌が淫靡で、わたしの頭はぐるぐると回った。

 すべて過去の話だ。

 君を殺したい。だめ? 彼はベッドでそう甘く囁いた。おそらく友達同士とそういう話題で盛り上がり、欲求が高まったのだろう。わたしは尻込みしたけれど、彼に説得されて最終的には頷いた。

 そこからは怒涛のように事は進んだ。

 最初は夢のように甘かった。わたしの首筋を撫でる彼の指、官能的な囁き。しかし酸素が届かなくなり苦痛という現実がわたしの身体に押し寄せた。わたしは暴れた。それに伴って男の身体がわたしを押さえつける。痛い、無理だ、もうやめよう、そんな言葉が頭の中で飛び交うけれど、息が吸えなくて何も音にはならない。力が強まり首に走る激痛。爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍。真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。

 わたしを傷つけるのは誰だ?

 わたしを殺そうとするのは。

 

 殺されるぐらいならば殺してしまえ。

 

 気づけばわたしは解放されていた。彼はわたしの死に物狂いの抵抗に呆然としていた。

「痛かった……?」

 馬鹿げた質問だった。痛いに決まっている。ふざけるな! わたしはそう叫んだつもりだった。しかし口からもれたのは、やめて、という震えた悲痛な声だった。それはどんな罵声よりも彼を傷つけたようだった。

 

(後略)

 

【出店情報】

bunfree.net

 

再掲ですが、当日は、

 出店名:菓子屋の軒下

 ブース:キ-31

でお待ちしています。

上記の文学フリマ東京公式サイトを参照いただき、感染症対策をとってご来場ください。

 

boothにて事後通販も予定しておりますので、当日の会場参加が難しい方はご利用ください。

※もし仮に完売した場合は、通販はありません。

また、第32回文学フリマ東京が中止になった場合は、通販のみに変更します。

 

取り置きのご連絡や、ご不明点は、Twitter:@amaai_jackまでお願いします。

無題(2021/01/23)

 蝉の声が耳につく。そうだ、窓があいているのだ。閉めたいけれど、ベッドから起き上がるのは面倒くさい。

 ベッドに横になりながら、キャンバスに向かうしぃちゃんの背中をぼんやりと眺める。この時間が一番好きだった。二番目に好きなのは、しぃちゃんとキスをしているとき。三番目は、しぃちゃんの絵のモデルをしているとき。四番目は――。

 いや、やめよう。

 つまり、しぃちゃんといないときは生きている意味なんてないっていうことだ。もっとも目的もなく大学に入って、流されるまま講義を受けているような人間なんて似たようなものだと思う。それが恋に浮かれれば、こうなるだろう。とうぜん。

「――し、」

 い、ちゃん、と続けようとして、やめた。きっとしぃちゃんは振り向かない。集中しているときは私の声なんて届かないし、届いたとしても無視するだろう。しぃちゃんにとって私なんてそんなものだ。私はしぃちゃんのことが好きだけれど、しぃちゃんはとって私は、せいぜい無料でモデルになってくれる便利な人、ぐらいの認識だろう。

 彼女に中庭で初めて会ったときのことを思い出す。あの、と声をかけられて、びっくりした。私の理想的な造形の顔が目の前にあったからだ。グレージュの髪はゆるく巻かれていて、風になびいていた。大きな目が、パチリと瞬く。睫毛が長い。

 後から、綺麗なカールと思ったのはただの天パだとわかるのだけれど。

『え、……っと、なんですか?』

『絵のモデル、してほしいんですけど』

『モデル?』

『はい。わたし、』

 彼女は手にもったスケッチブックを広げた。

『洋画を専攻してて。あ、と、あっちの建物に芸術系の学科があるんですけど』

『知ってます』

 スケッチブックの中には、紙いっぱいにスケッチが描かれていた。ランダムに広げてそうだったのだから、きっとどのページも同じなんだろう。パッと見て、レベルの高さがわかった。すごく、上手だ。

『よく、知ってます』

『あ、そうなんですか。えっと、それで、どうですか?モデル』

『モデルをしたら、私に何かいいことがあるんですか?』

『あー、そうですね。もちろん報酬もありますよ。お金とか、あとわたしにできることなら』

『付き合ってくれますか?』

 彼女はパチリと、瞬きをした。

『交際、してほしいんですけど。恋人になってほしいんです』

『あ、はい。いいですよ』

 彼女は顔色ひとつ変えずに言った。頭がカッとなった。

『いいんですか?私、女ですよ。本当に付き合えるんですか?』

『できると思います』

『キスできるんですか?』

『えっと、お金は要らないんですよね?大丈夫ですよ、キスぐらい』

 もともとレズビアンバイセクシャルなんだろうか。それにしたって、お金の代わりに体を売るような真似をするなんて、よく悩まずに即答できるものだ。それほどの覚悟がないと、絵を描くことはできないんだろうか。

『じゃあセックスも?』

『はい』

 彼女の顔がぐっと近くなった。一歩踏み出したのだ、と気づくと同時に、唇が触れ合った。

 二の腕を彼女の手がつかんでいる。瞳しか見えない距離で、もう一度言った。

『できますよ、それぐらい』

 そうして、私は彼女の恋人になり、モデルになった。

 ベッドに横になったままで、しぃちゃんの背中を見る。華奢な身体は布ひとつまとっていない。彼女は抱き合ったあと、服も着ずに絵を描くのが好きだった。どうしてかは知らない。シャワーぐらい浴びたら、とアドバイスをするけれど、彼女が私の言う通りにしたことはない。

 日の光を浴びたことがないような背中。傷ひとつないその肌に爪を立てて引っ掻いてしまいたい欲望にたまにかられる。ひぃちゃんの顔も、身体も、声も、すべてが愛おしいのに、一筋だけでいいから傷をつけたい。

「あいちゃん」

 いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。静かな夜の部屋に、ひぃちゃんの声だけが響く。

「わたし、あいちゃんが思っているよりも、あいちゃんのこと好きだよ」

 私は何も答えない。

「あいちゃんも、わたしと同じぐらい絵が描けたらよかったのにね」

 ああ、本当に、この女のことが世界でいちばん嫌いだ。

 

筑大深夜の真剣SS60分一本勝負(2021/01/23)のために書きました。

お題はかく:「描く」「搔く」(引っ掻く)です。

嗚呼素晴らしきかなメリー・クリスマス

 クリスマスが毎年楽しみだった。一年でいちばん好きな日だ。二番目は誕生日。なんで誕生日が二番目かっていうと、誕生日は僕と、僕の家族や友人だけが楽しいけど、クリスマスは街中のみんなが楽しい日だから。だからいちばんだ。

 クリスマスって、すごく素敵なイベントだと思う。十二月に入ると、イルミネーションがどこからともなく現れて、街中が輝きだす。街灯についたスピーカーはクリスマス・キャロルを流して、それを聴くと自然と心が弾んでしまう。もうすぐクリスマスだ!って。

 実のところ、僕は一回もサンタクロースに会ったことがない。サンタはいないよって友達は言う。大学生にもなって未だに信じてるのかって笑われてしまった。小学生のころはみんな真面目に話を聞いてくれたのに。僕はずっと信じてる。というか、いるって知ってるんだ。だって毎年、サンタクロースは僕が欲しいものをくれるんだから。

 十歳のときは、最新のゲームソフト。

 十五歳のときは、ずっと欲しかった革のジャケット。

 二十歳の――今年は、きみを。

 

 きみと離れ離れになってしまったとき、とても悲しかった。

 きみは僕の初めてできた恋人だった。きみといるだけで、こんなにも世界が輝くのかと驚きの連続だった。もちろん、人を好きなったのは初めてじゃない。家族も、たくさんの友人も、みんな僕の大切な人だ。でも、誰か一人だけを幸せにしたいと思ったのは初めてだった。

 一緒にいろんなところに行ったよね。覚えてる? 真冬に北海道に行ったときのこと。テレビで札幌の蟹の特集が組まれていて、どうしても食べたくなったんだ。きみは冬に北海道なんて行くものじゃないと行ったけれど、最後は着いてきてくれたね。蟹は美味しかったし、真冬の北海道は想像よりも寒くって、僕はすごく楽しかった。あんなに雪が積もっているのをみるのは初めてだったから、思わず飛び込んでしまったんだよね。貴方といると、世の中に悪いことなんて何ひとつないみたいに思えちゃうわ、ってきみは声をあげて笑った。その笑顔は、天使みたいに綺麗だったんだ。

 だから、そんなきみともう二度と会えないとわかったとき――僕は目の前が真っ暗になった。君がいない世界でどうやって生きていたのか、もう思い出せなかった。無理だとわかっていても、もう一度きみに会えたら。せめて、温かい言葉で見送ってあげたい。どうして最後に会ったとき、あんな些細なことで喧嘩してしまったんだろう。

 もう一度、きみの笑顔がみたい。この腕できみを抱きしめたい。

 きみに、会いたい。

 そう懇願するように日々を過ごしていたところに、きみが帰ってきてくれたのは、まさしく奇跡だと思った。十二月の二十四日。バイトから戻ってきた僕のアパートのドアの前で、きみは寒そうに立ち尽くしていた。きみではない、とは疑わなかった。だって明日はクリスマスだ。サンタクロースからのプレゼントだ、と思った。

 たしかに、今のきみの足は透き通っていて綺麗なブーツは履けないし、抱きしめようにもその体をすり抜けてしまうけれど、そんなことは関係ない。再会してからのきみの言葉は難解で、聞き取れないことが多い。一度離れ離れになってしまったときに、新しい言語を覚えてきたんだよね。でも偶に日本語で喋ってくれるから、そのときのきみの声音に僕はうっとりとしてしまうんだ。相変わらず、鈴が転がるような可愛らしい響きを聴かせてくれる。どんな姿であろうとも、きみは間違いなく僕の恋人だ。

 

「じゃーん。クリスマスケーキ、買っちゃった。きみが食べられないってわかってたけど……でも、可愛いでしょ? 僕が食べるから、無駄にはならないよ」

 箱から出した2ピースのケーキをきみの前に並べる。

『銀h慮』

 きみが何かを言って、少し寂しそうに笑った。せっかく買ってきたのに。食べられないのはやっぱり嫌なんだろうか? でもせっかくのクリスマスだから、形だけでも整えて盛り上がりたかったんだ。

『貴方が、』

 日本語だ。僕はぱっと顔をあげた。きみの言葉は一言一句聞き逃したくない。

『世界の見え方を変えてしてくれるんだって思ってたときもあった。違うのね。貴方はただ、悪いことを見ないようにしてるだけなのよ』

「どういうこと?」

 きみは風呂場を指さす。実は最近掃除をさぼっていて、近所の大衆浴場に通っている。ちゃんと掃除をしろ、ということだろうか? たしかに、ちょっと匂いがきつくなってきたような気もする。

「掃除? でもめんどうなんだよなあ。今日はクリスマスなんだからいいでしょ。また今度やるよ」

『今度っていつ?』

「うーんと……」

『いま』

「え?」

『いま、やってきてよ。いますぐに、あの風呂場のドアを開けて、中の、わたしの、ぎたいdごwみtghけてmfdffぢょわひs度wp簿とぢgky底をさっさと御代rンsd氏よ』

 あ、また聞き取れなくなってしまった。きみの口が動いているから、何かを喋っているのはわかるけれど、意味をなさない音の並びにしか聞こえなくて、何を伝えたいのかはわからない。すごく残念だ。きみの言葉は一言一句聞き逃したくないのに。

 ええと、それで。

 何の話だったっけ。

「あ、そうだ、クリスマスケーキ。しょうがないから、僕が二個食べちゃうね。違うよ、決して二個食べたかったとかじゃなくてさ、あはは」

『えshすんs』

 きみはまた寂しそうに笑う。きみの輝くような笑顔が好きだったけれど、ずっと見ていない。でも、無理して笑う必要なんてない。きみが笑わない分、ぼくが笑うから。いつかきみが自然と、声をあげて笑ってくれるのを待ってる。

 フォークで掬い取った一口は、一口というには大きすぎたけど、思い切って頬張った。去年、一緒に選んだケーキ屋さんの味はそのままだ。外はホワイト・クリスマスで、ケーキは美味しいし、こうしてまたきみと一緒にいられる。

 やっぱりクリスマスって一年でいちばん楽しい日だ。

 

後書き

筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。既視感がある?2回目なので…。上記の小説は12/15のために書き下ろしました。

adventar.org

・前回が明るい話だったので、暗い話を書こうとしたのですが、楽しい話になってしまいました。不思議だなぁ。

 

新生

君だけが

君の掠れた低い声だけが

私を連れ去っていく

 

 * * * * *

 

 高校生のころはよかった。スクリーンに映し出されたスライドを眺めながら、そう思う。やるべきことがわかりやすかった。テストで良い点をとればいい。それだけだ。そこに私の意志が介入する余地はない。(しいていえば文系か理系か、という選択肢を突き付けられたことはあったけれど、就職に有利だからという理由で親が理系を勧めたのでそうした)進路希望調査の大学名は、自分の偏差値に見合ったところで、地元から離れたところを三つ記入した。地元から離れようとしたのは、必要以上に私を気にかける親と会話するのに、いい加減疲れてきたからだった。

 親が私を心配するのはわからなくもない。私はあまり自己主張をしないからだ。しかしそれも私からしてみれば仕方のない話で、おそらく、生まれついて私には感情というものがないのではないかと思う。もちろん、美味しいものを食べれば美味しいと感じるし、不快な音を聞けば耳を塞ぎたくなる。しかし、自主性を求められると、とたんに返答に困ってしまう。

 たとえば、夕食が何がいいかと聞かれたとき。私は寿司が好きだし、ハンバーグも好きだし、親子丼も好きだ。しかし、寿司が出ようがハンバーグが出ようが、あるいはまったく別の八宝菜が出てこようが、私の気分は特段変わらない。要するに、何が食卓に出てこようが腹が満たされればいいのだ。けれどそう告げると、困ると言われる。普段の食事ならまだいいけれど、誕生日となれば、躍起になって私の要望を探ってくる。適当に答えたら今度は、食べたいものが出てきた喜びをアピールしなければならない。実際には嬉しくもなんともないにも関わらず。そういう日々にはもううんざりだった。

 それで地元を出て独り暮らしを始めた。想像以上に快適な日々だった。誰も私の機嫌を気にかける者はいない。無表情で食事をしていても文句は言われない。

 しかし授業は別だった。高校とは違って、自分で決めなければいけないことばかりだったのだ。授業を受ける前からそうで、必修科目とは別に選択科目、自由科目まであって、授業の取り方は無限だった。本来であれば、自分が進みたい進路や、興味がある分野をもとに取り方を決めればいい。しかし、私には自分の希望など何もないのだ。春学期半ばまでの予定表はオリエンテーションで教えてもらった先輩のアドバイス通りに組みつつ、さてこれからはどうしようと悩んでいたところに話しかけてきたのが、岩瀬柳だった。

 食堂でいつも通りカレーを食べていると、隣に二人連れの男が座った。昼時の食堂は混むので、隣や向かいに他人が座るのはよくあることだ。(慣れてくると昼休みではなく二限か三限のタイミングで食事をとるというテクニックを使うのだが、一年生の私はまだ知らなかった)しかし、隣に座った他人が話しかけてきたのは初めてだった。

「なあ、白川さんっていつもカレー食ってるよな?」

「はあ……」

 私はうろんげな視線を彼に向けた。知らない人だ。いや、知っているかもしれない――つまり、同級生のような気もする。しかし話したことはないはずだ。彼の向かいに座った男性も、目を丸くしていた。

「たしかに、そうですけど……なんで私のこと知ってるんですか? 私、話したことありましたっけ?」

「まあ、同期の紅一点は覚えるっしょ」

 やはり同級生だったらしい。たしかに同じ学年で女子は私一人だ。私の学類は毎年女性の人数が極端に少ないらしい。理系の中でも生物学類なんかは女子が多いのにな、と先輩は嘆いていた。

「それで食堂にいるから観察してたらさ、いつもカレー食ってるじゃん。俺さ、白川さんがカレー以外食ってるの見たらラッキーデーって勝手に決めてたんだけど、そんな日なかったわ。カレー好きなの?」

「はあ……まあ、そんな感じです」

 実際のことをいうと、カレーは食堂のグランドメニューの中でも比較的安く、かつ野菜がとれるからだった。定食でも生野菜がついてくるので栄養はとれるけれど、日替わりなので毎日選び直さなければいけない。一方でカレーは必ず毎日ある。悩まなくていい、というのは私にとって重要だ。

 しかしそんなことを初対面の人間に説明する義理はないので、好きだから、という理由で流すことにした。

「女子一人ってさあ、なんか大変じゃない?」

「大変、じゃないですけど……」

「代返とかさ。あと、休講の情報なんか? 俺なんかはさ、早々にユーチと友達になれたから、情報共有できたけど――」

 ユーチ、というところで斜め前の男を見ると、軽く頷き返された。つまり彼がユーチくんらしい。

 私は頭の中で天秤にかけた。友人ができる煩わしさと、すべて友人に任せてついていけばいいという気楽さを。そうして口を開いた。

「確かに、授業の組み方とかはちょっと悩んでるかな」

「マジ? やっぱそうだと思ったんだよな。よかったら連絡先交換しようぜ。そうだ、ユーチ含めてグループチャットたてるのはどう?」

「何のグループ?」

 ようやく、ユーチくんが喋った。私を疎んでいるわけではないようだ、と他人事のように分析する。おそらく、私に似たタイプ。友人関係が増えるのは好ましくもあり、面倒でもあるので、積極的にはなれない。しかし友人がグイグイ引っ張るので否応なく着いていかざるをえない。

「カレーグループでよくね? 俺もカレー好きだし。あ、そうだ、俺、岩瀬柳。ヤナってみんな呼ぶ。んで、こっちが――」

「田尻雄一。よろしく、お願いします」

「白川昴です。よろしく」

 岩瀬柳と友人になったのは、想像以上の収穫だった。彼は別のグループチャットで得た情報をすべて横流ししてくれたので、私は自分で掲示板を見に行ったり、先輩に過去問をお願いする必要がなくなった。履修の計画も組んでいたので、それを真似ればよかった。彼についていけば、私の大学生活は万事、とまでは言わなくても、ほどほどには上手くいった。その一方で、私の予想とは裏腹に、彼は決してお節介な人間ではなかった。確かに親切で、よく気にかけてくれる。それから、いろんなことに目をやるので、ほかの人よりも気づきが多かった。私がカレーばかり食べているのに気づいたように。しかし本当のところ、彼の頭の中は何か重要なことで占められているようだった。だから、何かに気づいたとして、興味を持っても、表面的な答えを得られたら満足してしまうのだ。

 彼の頭の中を占めている何か、というのを私は一度尋ねたことがあった。同級生の何人かで宅飲みをしていた、その終わりかけのことだった。彼は少し恥ずかしそうに、音楽だよ、と答えた。

「音楽?」

 まだ寝ぼけていない数人が、興味を持ってこちらの会話に加わってきた。

「あー、そう……バンド。まあ、プロになるわけじゃないし? サークル活動だけだけど。でも、大学生の間だけって決めてるから……そしたらやっぱ、本気でやりたいじゃん?」

「マジか、柳って熱い男じゃん。ライブとかあんの?」

「あるよー、来月。よかったら来てよ」

 行く、と私は頷いた。私の日常は講義と課題とバイトのみで構成されており、ライブの日が暇である可能性は高かった。

 岩瀬柳が面倒じゃなかったのに対し、もう一人の、ユーチこと田尻雄一は非常に面倒な男だった。なんと、彼は私に好意を持ってしまったのだ。なんとも不思議なことである。こんな感情を表さない人間にどうして恋愛感情が抱けるんだろう。しかしまあ、彼は男子校の出身で、今まであまり異性と接してこなかったと聞くから、女性を見る目が養われていないのかもしれない。

 彼は積極的にアプローチしてきた。頻繁にメッセージを送ってきたり、デートに誘ってきたりといったことだ。メッセージについては、苦手だから、あまり返せないかもしれない、返してもスタンプばかりかもしれない、とあらかじめ言っておいた。盛り上げるような会話というものが私は苦手なのだ。デートについては、明にデートと言われず、カラオケや食事に誘われただけなので、うまく断れず毎度行くことになった。別に行きたいわけではないけれど、行きたくないわけでもなく、田尻雄一に好意を持っているわけではないけれど、彼の好意を拒否する言い訳を考えるのは面倒で、気づいたら流されているのだった。そもそも自分は彼と付き合いたくないのか、それすらはっきりと断言できないのだ。私はそういう人間だった。

 田尻雄一と一緒に岩瀬柳のライブを観に行くことになったのも、そういう流れだった。

『ヤナのライブ、来週末だよね』

『一緒に行かない?』

 私と田尻雄一が一緒に現れたら、岩瀬柳は多少邪推するのではないかと思う。しかし、一緒には行きたくないと田尻雄一の誘いを断るのも不自然だった。まあいいか、と私は肯定的なスタンプを返した。なるようになる、だ。

 当日、私と田尻雄一は駅で待ち合わせて一緒に会場に向かった。会場は混雑していて、私と田尻雄一はドリンクのカップを片手に所在なさげに佇んでいた。ネットで調べると、今日はサークルに所属している全バンドが出演するらしく、それらが皆友人を呼んでいるので、こうしてすし詰めになっているらしい。

 定刻になり、サークルのリーダーのお決まりのような挨拶から、一つ目、二つ目、とバンドが登場しては去っていく。私はあくびが出そうなのをこらえていた。どのバンドも、上手いと思う。素人が聴いているからかもしれないけれど、素直にそう思う。けれど、上手い、ただそれだけだ。それで何か私の心が動くわけではない。

「柳のバンドって何番目だっけ」

 囁くようにして田尻雄一に尋ねる。いい加減立ちっぱなしで足が疲れてきた。

「え、っと、六番目――あ、次じゃないかな」

 そう言うとともに、舞台上に岩瀬柳が姿を表す。ああ、私と田尻雄一を見てどう思うんだろうなあ、勘違いされて応援されたら面倒だなあ、と思っていたけれど、彼は真剣な表情でマイクの位置を調整していて、こちらを見ることはなかった。ここに来て初めて私は、彼がギターボーカルというバンドの花形の立ち位置にいることを知った。

 どのバンドも紹介なしで一曲目が始まる。岩瀬柳が目線でバンドメンバーに合図して、ドラマーがスティックを振り上げた。あ、始まる、と悠長に私は構えていた。

 一音。

「――――」

 岩瀬柳、の、いつもと違う、常よりも低い声が、私の鼓膜を揺らす。たったそれだけのことで、カッと体が熱くなる。スピーカーから流れ出る振動が直に心臓に届いているみたいだ。

 これはなんだ?

 私はいまなにを聴いている?

 私はいまどうなっている?

 これは、なんなんだ?

 すこし掠れたその声が歌い上げているのが何なのか、私にはわからない。歌詞を聞き取る余裕なんてない。でも、きっとそう、恋の歌だ。歌声と、彼の切ない表情を見れば予想がつく。

 ハア、と吐息をもらす。ずっと息を止めてしまっていた。呼吸を再開したのに、けれど苦しい。正しく息をすって、はくことがこんなに難しかっただろうか。自分の体が自分のものでないような感覚に陥る。

 心臓がバクバクと音を立てているような気がする。燃えるように体が熱い。いつまでもこの歌を聴いていたい。いや、もう終わってほしい。恐ろしい。この歌が永遠に続かないということが、こんなにも悲しくて恐ろしい。それならばいっそ、もう終わらせてほしい。

「――――」

 シャウト。思わず悲鳴をあげそうになった。彼の声は、呼吸を苦しくさせる。どうしてだろう? 私はどうしていま、叫びだしたくなっているんだろう。わあ、と大声をあげてしまいたい。何を伝えるためでもない。ただ、叫んでしまいたい。そうしたらこの身を支配している何かから、楽になれるような気がする。

 私の目には、もう岩瀬柳以外の何も映っていなかった。彼は、ただひたすらに歌っている。私なんて目に入らないぐらい真剣に。

「――――。……ありがとうございました」

 終わった。歌声の余韻を、ギィン、というギターの音色が断ち切る。彼が頭を下げると、拍手が起きる。彼の隣のギターの人が、バンドの紹介を始めた。岩瀬柳は、後ろに置いてある水を飲んでいる。

 軽薄なおしゃべりは、私の耳には入ってこない。

 これはなんだろう。どうして私はただの音の連なりに、体が痺れるほどの衝撃を感じたんだろう。こんなことは生まれて初めてだ。ただただ不思議だった。何も分からない。でも。

 彼が、彼の歌が欲しい。

 そう思った。

「白川さん」

 名前を呼ばれて、そろそろと隣をみる。田尻雄一が、眉をひそめて私を見ていた。

「なんで、……泣いてるの?」

「泣いている? わたしが?」

 頬に手をあてると、たしかに濡れていた。自分の目がどうして涙をこぼしているのか、私にもわからなかった。






あとがき

 

筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。上記の作品は、12/7のために書き下ろされました。主催の神乃さん、ありがとうございました。他の方々の作品も素敵なものばかりなので、未読な方はぜひ読んでみてください。

adventar.org

・短編+短歌、という形に図らずもなりました。私の好きな本の1つ、加藤千恵さんの「真夜中の果物」はこの形で構成されている短編集です。短歌という31文字の世界を小説が広げてくれる、また小説の広い世界をぎゅっと短歌に閉じ込めている、この相互の関係性が素敵な作品です。興味があればぜひ。

・バンドものはもともと好きです。書いたのは初めてですが。元ネタとなった短歌は、2017年に詠んでいました。

・少し早いですが、メリークリスマス。



きえない

 ドアを開く前から、なんとなく予感があった。だから、玄関先で抱き合う正樹と佳奈美を見た時に、驚きに身を支配されずに怒ることができた。まさかそんな、ではなく、やっぱりな、という気持ち。やっぱりコイツら、私を裏切っていたんだ。

 でも、もしかしたら、ほっとした気持ちもあったかもしれない。ずっと陰でこそこそと動かれて、怒ればいいのかどうなのか、もやもやしていたものがこれではっきりした。

 目があった正樹は、ヤバイという焦りを露わにして、慌てて佳奈美から離れた。たいして佳奈美は、予定調和のように落ち着いた表情だった。ずり下がったオフショルダーのニットを直す余裕すらあった。それはそうだろう。だって佳奈美は、あからさまに見せつけていたから。

「正樹、これって、そういうことだよね?」

「そういうこと、って?」

 正樹は薄笑いを浮かべる。取り繕うみたいに。

「浮気でしょ」

「違うよ」

 言い逃れできるとでも思ってるんだろうか。あまりにも馬鹿にされている。睨みつければ、正樹はメドゥーサと出くわしたみたいに目をそらした。失敬な。

「浮気だよ」

 隣から佳奈美が口を出す。

「正樹くん、浮気してたんだよ」

「正樹とアンタが、でしょ」

 佳奈美は悪びれずに頷く。

「うん。でも、そんなに怒らなくてもいいじゃん。正樹くんも、実花ちゃんのこと嫌いになったわけじゃないんだよ」

「嫌いになったわけじゃない? じゃあどういうこと。私よりアンタのことをより好きになったってだけこと?」

 佳奈美は笑う。その笑顔が妙にムカついて、睨みつけた。

「ていうか、佳奈美はどうなの? 正樹が好きなの? それとも私を傷つけたいだけなの? どっち?」

 私には、後者な気がしてならなかった。



 正樹と出会ったのは大学の入学式の日で、佳奈美と初めて会ったのも同じ日だった。化学部は理系の割には女子が多い学部だったけれど、それでも全員の顔と名前をすぐに覚えられるぐらいには少なかった。

 佳奈美を最初に見たとき、高校のときに気が合わなかった女の子に少し似ていて、仲良くなるのはよしておこうと決めた。

 同じ部活だったその子は、男の子とのゴタゴタがあって部活にあまり集中しなくなったのだ。それについて口を出したら、「興味ないひとばっかりに好かれちゃって、あたしは大変なの」だとのたまった。そりゃ、その子は可愛かったから、本当のことなんだろうけど、それと部活って関係ないでしょ。私がモテないのを知っていて、当てつけで言ったとしか思えない。それで喧嘩別れして、その子は部活を辞めて、それきり。部内の子は私の味方をしてくれる人が多かったけど、友達と喧嘩することそのものに疲れてしまった。そういうタイプの子を相手にするのはもううんざりだ。そういうタイプって、つまり、ふわふわしてて、柔らかそうで、男の子に人気があるって自分でわかってる子。

 私はというと、男女の友達も多いけれど、決して友達としか見られないタイプだった。だから、入学式で隣の席に座った正樹と仲良くなった時も、友達でしかないという心づもりだったし、まさか告白されるなんて思ってもみなかった。

 なんで私なの、と聞いたとき、一緒にいて楽しいから、と正樹は言った。ちょっと照れた顔で、実花の特別になりたいと言われて、舞い上がってしまった。そのまま、うん、と頷いてできた初めての恋人は、当然のごとく友達とは違うことがたくさんあって、そういう日々は、思っていたより楽しかった。

 綻びが生じ始めたのに気付いたのは、夏の終わりごろだった。正樹が行った、サークルの夏合宿を写真を一緒に眺めていたときに、ふと、知った顔を見つけた。

「あれ、これ、村中さんだよね? 村中佳奈美ちゃん」

「え、あ、うん」

 五人ぐらいが写った写真で、仲がいいメンバーで撮ったのかなと思わせた。写真の中の彼女は、ピンク色のブラウスを着ていて、ふわふわした袖が、隣でピースをしている正樹にあたっている。

「そうだけど……。実花、佳奈美のこと覚えてたの?」

「そりゃ、同じ学部の女子ぐらい覚えてるよ」

「あー、そっか、まあ、この間紹介で入って来てさ。でも向こうは女子でこっちは男だし、佳奈美とはそんな話さないから。それよりバーベキューの写真があってさ、」

 正樹の指がスマホの画面をスワイプする。ふんわりと笑う佳奈美の顔が、画面から消えた。

 正樹の口から、サークルに佳奈美がいるという話を聞いたことはなかった。正樹のいう通り、わざわざ私に言うほどの関係じゃないのかもしれない。でも、慌てて他の話題に移したことが、かえって怪しく思えた。そんなに話さない男女が、触れ合うような距離で並んで写真を撮るだろうか? 佳奈美、なんて下の名前で呼ぶ?

 考えれば考えるほど、怪しく思えてきた。付き合って数か月、正樹が男子校出身で女慣れしていないことは察していた。男好きしそうな佳奈美に迫られたら、ひょいと心が移ってもおかしくない。

 盗られたくない、と強く思った。正樹が私の特別になったんだから、私だって正樹の特別じゃなきゃおかしい。他の女の子と仲良くなれたから乗り換えるなんて、裏切り行為だ。

 しかし、浮気の疑惑に対して具体的な行動をとることができなかった。なんの証拠もないのに詰め寄ったら、それこそ関係性が破綻してしまう。もやもやした気持ちを抱えたまま日々を過ごしていると、正樹と佳奈美が二人で出かけていたという噂を耳にした。そんな話を聞くと、デートを断られた日が、すべて怪しく思えてくる。提出期限が近いレポートがあるとか、サークルの集まりとか、全部嘘なんじゃないかと。私に嘘をついて、二人で遊んでいるんじゃないかと。

 実際にカマをかけてみたけれど、真偽のほどはわからなかった。上手く誤魔化されたのか、カマをかけたときは本当に用事があったのか、全くわからない。逆に、何でそんなこと聞くの、と尋ねられ、疑われていると感じた。私が疑っているって、疑われている。メンヘラみたいに思われるのが嫌で、それからは確信をつくような質問をすることができなかくなった。

 でも、浮気してるのは確実。絶対に、そう。

 教室で佳奈美を見かけると、つい睨んでしまうようになった。たまに視線が合う。すると彼女はにっこりと笑うのだ。挑発されている。そう感じた。だって、普通だったら、睨まれていたら、戸惑うとか、不安になるとか、あるはずだ。笑うなんて、睨まれる理由に心当たりがあるからだ。それでいて、挑発して笑ってくるのだ。

 最低な女。

 佳奈美のことは、そういう評価になった。

 毎日疑心暗鬼にかられているうちに、正樹への感情も、よくわからなくなった。私を騙していることに怒りたい。でもそれが愛情から来ているのか、今となっては不明だ。夏頃は、嫉妬しているとはっきり答えられたのに。

 もう解放されたい。そう思ったときに、二人の浮気現場に出くわしたのだった。



「実花ちゃん、正樹くんと別れちゃったんだってね」

 ひとりで食堂で食べているところで、向かいに誰かが座ったのはわかった。面倒だったから顔をあげなかったのだけれど、話しかけられては仕方がない。

 食事の手を止めて、佳奈美を見る。ゼミが長引いた後の食事で、昼食時間からはずれていたこともあって、周りに人はいないようだった。そういうときを狙ったのかもしれない。

「おかげさまでね。そういうアンタも、正樹と付き合わなかったみたいだけど」

 私と別れてから、正樹が誰とも付き合っていないというのは聞いている。なんなら、佳奈美はサークルを辞めたとも。

「だってわたし、正樹くんのこと別に好きじゃないもん」

 佳奈美はにっこりと笑う。

「それがあのときの質問に対する答え」

 正樹のことが好きなのか。私を傷つけたいだけなのか。その問いに、あの時の佳奈美は「そんなの決まってるでしょ」としか答えなかった。今のが正しい答えだということは、つまり、私を傷つけたかったということだ。

「そんなに私が嫌い? そこまでアンタに何かした覚え、ないけど」

「逆だよ。わたし、実花ちゃんのこと好きなの」

 恋愛的な意味で。

 最後の言葉は、ギリギリ聞き取れる音量で囁かれた。

 思考が止まった。逆って。恋愛的に、好き?

「入学式のあとのオリエンテーションで、無理矢理男の子に写真撮られそうになったときに、実花ちゃん、守ってくれたでしょ。撮られる側の気持ちがわかんないなんて、ダサいって。そのとき、好きって気持ちがわあって押し寄せてきて、胸がいっぱいになったの」

 覚えは、ある。好きでもない男に告白されるなんて迷惑だ、という高校時代の言葉が、頭に残っていたからだ。好意を押し付けてくる男が、癪に触った。別に佳奈美のことを気にかけたわけではなかった。

「わたし、子供の頃から女の子しか好きになれなかったの。でもね、男の子にばっかり告白されて、女の子には嫌厭されて。大学でもそうなるのかなあって思ってたときに、実花ちゃんがキッパリ断ってくれて、すごく嬉しかった」

「私は別に、守るとか、そういうつもりじゃ……」

「わかってる。実花ちゃん、わたしのこと眼中になかったもんね。最初のころなんか、避けてたでしょ? 食事に誘ったのに、断られたりとかね。辛かったなあ」

 それは、高校時代の失敗が頭にあったからだ。佳奈美のほうは仲良くなりたかったなんて、思いもよらなかった。食事を断ったことも、記憶にない。

「教室でね、たびたび実花ちゃんのこと見てたんだよ。綺麗だなあって。知らなかったでしょ? 一度も目が合ったことないもんね。……正樹くんと浮気するまで」

 佳奈美がにっこりと笑った。教室で目が合ったときと、同じ笑顔。

「強く見つめてきてくれて、すっごく嬉しかった。感動したなあ。わたしなんて実花ちゃんの人生に一度も現れることができないと思ってたけど、ちょっと男の子にベタベタしただけで、いきなり主要人物に成り上がれた」

「……だから?」

「ん?」

「だから、正樹と浮気したっていうの? だから、他人の彼氏を奪ったって? 私に認知してほしいから? 私のこと好きだから?」

 それって。

「それって、好きの押し付けじゃん。好きだから何をしてもいいなんて有り得ない。さっき、男の子にばっかり告白されて辛かったって言ったけど、アンタだって同じことしてるじゃん。ううん、アンタのほうがひどい。アンタがしたことで、私と正樹は傷ついた。本当にひどいことしたって、わかってる?」

「うん」

 あっさりと頷いた。その様子に、またカッと頭に血が上る。でも声になる前に、佳奈美が言葉を続けた。

「わたし、ひどいことしたよね。だからわたしのこと嫌っていいよ。憎んでいい。ううん、私を世界でいちばん嫌いになって」

 佳奈美は、笑っている。その瞳が、真っ黒なことにいま初めて気づいた。覗き込んでいると、どこまでも落ちていきそうな黒。

「実花ちゃんがわたしのこと好きになってくれるなんて、最初から思ってないもん」

 ふわふわして、柔らかそうな女? どうしてそんなことを、思えたんだろう。こんなにも棘でいっぱいで、自分の皮膚さえ突き刺してしまうような人間を。

「……佳奈美は、私がまた男と付き合ったら、そいつも奪うの?」

「うん。そうして、佳奈美ちゃんがわたしのこともっと憎んでくれるなら」

 ゾクリと震えが走った。思わず立ち上がると、佳奈美は不思議そうに首をかしげた。

「もう食べないの? じゃあ、残り貰っていい?」

「……どうぞ。冷たくなっているので、いいのなら」

「ありがとう。実花ちゃん」

 鞄を持って、立ち去る。カツカツとヒールの冷たい音が響く一方で、頭の中は煮えたぎるようだった。絶対に、佳奈美の言う通りにはさせない。また恋人をつくって、佳奈美がちょっかいを出してきても鼻で笑って、二人で幸せになってやる。

 そうだ、それがいい。正樹のことは忘れて、新しい恋人をつくろう。そう決めて、気になる人はいないかと頭の中のフォルダを漁るけれども、どうしても、脳裏に浮かぶのは一人の顔だけだった。

 

後書き。

コンセプトは「奪うことでしか繋がれない」でした。

書いているうちに追加されたのは「男の子にモテる容姿と性格のレズビアンと、女の子にモテるヘテロ」でした。まぁもうヘテロじゃないですけど…。

お手軽!簡単!「はじめて」キット

 簡単キットだというので買ってやってみた。どうにもまったく簡単だとは思えない。イラスト付きの説明書がついているものの、簡単だというよりは簡潔すぎるといったほうが正しい。試しに動かしてみたが、どうやっても五分ぐらい経ったら主人公が死んでしまう。友人に相談したら、初期設定のままなのが駄目なのだと笑われた。
「でも簡単っていうんだから、いい感じに設定されてるんじゃないの?」
 愚痴を言うと、あっさりと頷かれた。
「そりゃね。五分持ったんでしょ?」
「うん」
「自力で作ったら、五分なんてもたないよ。とりあえず貸してみなよ。五十分ぐらいには延ばしてあげるから」
「十倍じゃん。ほんとにできるの?」
「まあ見てなって」
 世界設定と、主人公と、その周りのキャラクターたちを友人が弄繰り回していく。並行世界とか、金髪の幼馴染とか、たまに耳鳴りがするとか、何の意味があるかわからない情報が付加されるたびに、理屈はわからないけれど世界の寿命は延びていった。
 指をさして尋ねてみる。
「この、並行世界っていうのは何の意味があるの?」
「平行世界があるとさ、一つの世界で主人公が死んでも全体としてみたときに世界が続いたりするんだよな。冗長性ってやつ」
「ええとじゃあ、両親が海外出張に行くっていうのは?」
「知らん。でもそれ入れると寿命が延びる。……っと、ほら、一時間にはなったぞ」
 友人はキットを放り投げてきた。慌てて受け取る。
「いろいろパラメータ変えたり、設定増やしたりしてみろよ。それでまた寿命が延びるから。こういうキットなら……目標は一日だな。それだけあればエンディングまで辿り着けるからさ」
「へえ。一日ね。なかなか長いなあ」
「でも一回そこまで辿り着いたらさ、ちょっとパラメータ変えるだけでエンディングを変えたりできるし、楽しみ方が増えるからさ。まあ、試してみなよ」
「……この、耳鳴りっていう設定はなに?」
 友人がキットを覗き込む。
「耳鳴り? ああ、主人公のね。なくてもいいんだけどさ、耳鳴りとか眩暈とかがあると、それを予兆として事件が起こりやすいから、ストーリーのバリエーションが増えるんだよ」
「ふうん」
 試しに、その耳鳴りのパラメータを変えてみた。動かしてみると、十秒で主人公が死んでしまう。今までにない最速の終了に、呆然としてしまった。隣で友人が爆笑している。
「ばか、その数値はでかすぎだよ。そんなにひどい耳鳴りが響いたら、人間は死んじゃうから」
「そうなの? 面倒だなあ」
「可哀相にな、お前がテキトーに数値を入れたせいで五百億人ぐらい一気に死んだぞ」
「まあたかが五百億だし……」
 そう言いながらキットを再稼働した。いろいろエンディングを見てみたいけど、それまでトライアンドエラーを行う根気が持つかどうかが問題だ。お蔵入りになったらそれこそ本当に五百億人が可哀相だな、と益体もないことを考えた。

 

※お題は「耳鳴り」「マルチエンディング」「世界五分前仮説」でした。