最初で最後の人生(2023/2/1)

 七十六回目の人生の、十九歳と五ヶ月十五日三時間とんで十秒生きたとき、あたしは札幌の街を歩いていた。隣にはゆっちゃんがいて、かじかんだ手を吐息で温めていた。ビルの灯りと街灯に照らされた歩道に人通りはほとんどない。ただ車道を車が行き交っているだけだ。

「寒いねぇ、さすが札幌。あたし札幌って都会やと思っとったけど、そんなことないんやね」

 ゆっちゃんは暢気な口調でそう言った。

「東京と比べちゃダメでしょ」

「そうかもしれんけど、でも、夜でももっと人がおるんやと思っとった。みんな車で移動しとるんかな」

「北海道は車社会だし、そうなんじゃない?」

「そうかぁ」

 ゆっちゃんは大きく伸びをする。

「ひぃ、このままホテル戻るのでいいがん?」

「いいよ」

「じゃあレッツゴー」

 あたしの手を握ってゆっちゃんが笑った。冷えきっている。まるで死体みたいに。

「……ゆっちゃんは?」

「ん?」

「それでいいの?」

「んー、いいっていうか、ほんともうあたしお金ないから、逆にどこも行けんもん。財布ン中千円ぐらいしかないんやよ。ひぃもやろ?」

「まあ」

 本当は一万円ぐらい入っているし、クレカもあるし、ATMでおろせば二十万ぐらいはある。けれど、ここからもうどこにも進む気はないということは同じだった。

「明日はどこ行く? あの、動物園、有名なん行きたいやん。それから、せっかく北海道まで来たんやし、一番北まで行ってみたいんやよね。なんか目印とか建っとらんのかな」

「でも、もうお金ないんでしょ」

「……そうやね」

 ゆっちゃんは頷いた。

「そうやったら、じゃあ、もういっか」

 立ち止まる。横断歩道の真ん中で。

 繋いだ手に引っ張られて、あたしの足も止まった。

「明日まで生きとっても、何もできんもんね。そうやったら、今夜のうちに死んでいいかもしれんね」

「車に轢かれて?」

「例えばやけど」

「……運転手に迷惑だよ」

 それもそうやね、と頷いて、ゆっちゃんは歩き出した。点滅する青信号を眺めながら、この子はどこまで本気なんだろう、と内心考える。もし、あのままあたしたちに気づかずに突っ込んでくる車があったら。そのまま死んでしまっても、本当によかったんだろうか。あたしは別にいい。七十六回目の人生は平凡で、目新しいこともなく、そんな毎日には飽き飽きしていた。それに、どうせ死んでもまた次の人生が始まるだけだ。

 でも、この子はそうじゃない。たった一度きりの人生を、あたしのために全部投げ出していいって、本気でそんなこと思っているの?

「じゃあ、どうやって死のうかね。海に飛び込んでも、寒そうやもんね。寒いの嫌やなあ、あたし」

「ゆっちゃんは、本当にいいの? このまま、あたしと一緒に死んで後悔しない?」

「うん。あたし、ひぃのこと好きやもん」

「でもさ、本当はこれからもっと楽しいこととか、嬉しいこととか、あるかもしれないじゃん。あたしに流されてるだけかもよ」

「今更どうしたん? ひぃが死のうって言い出したんやん」

 そうだけど、本当にあたしと一緒に死んでくれる人なんて今までいなかった。

「ひぃが死のうって思ったってことは、この世界には生きとる意味なんてない、むしろ生きとったほうが辛いこととか大変なことがたくさんあるんやろうなあ、って、そう、思ったから」

「あたしの判断を信頼してるってこと?」

「信頼――っていうのとは違うかもしれん。ひぃの考えが間違っとって、本当はこの世界には楽しいこととか素晴らしいもののほうが多くて、生きとったほうがよかった、ってなっても、あたし、ひぃのことを信じたの、後悔しんと思うんやよね。だからそれはつまり――最初と同じになっちゃうけど、ひぃのこと、好きってことやと思うわ。……え、なに、どしたん?」

 あたしは、ゆっちゃんのことを、抱きしめた。

 この世界に生きる価値があるものなんてなにもない。あたしは七十五回の人生でそれを痛感していた。悪魔より悪辣な人間も、吐き気を催す人間関係も、地上に生まれた地獄も、いくらでもある。でも、生きるに値するものなんてなにもない。

 ただ、ゆっちゃんを除いては。

「このまま、ずっと」

「ずっと?」

「こうしていたい」

「いいよ。そうしよっか」

 ゆっちゃんの腕があたしの背中に伸びる。ほどいてしまった手は外気に晒されてどんどん冷たくなっていく。でも、あたしはゆっちゃんから離れたくはなかった。

 ずっとこうしていたい。

 どこにも進みたくなんてない。

 もう二度と生まれ変わりたくないと初めて心の底からそう願った。




〖1月に読んだ本〗

戯言シリーズ 1~7巻 /西尾維新  等