ピアノを習っていてよかったこと(2023/08)
その高校で、K大学に合格したのは私と村中だけだった。嬉しくはない結果だった。教室の真ん中で、先生にバレないメイク方法とか、男と付き合ったり別れたりすることばかり話している人間と相容れないことなんて、はっきりわかっていた。何より村中はバレー部だった。どうせなら仲良くできそうな人と進学先が同じだったら、大学でひとりぼっちになることを最初から避けられてよかったのに。
放課後、村中が話しかけてきたとき、ああ大学の話かと思った。だからチケットを2枚差し出されたときは拍子抜けした。
「これ、一緒に行ってくれない?」
ピアノのコンサートのチケットだった。そんなものに村中が興味があるのも意外だった。
「え、なんで?」
そう問いかけると、村中は気まずそうに目をそらした。
「御井と和美はまだ受験残ってるし」
いつもメイクと恋バナをしている女達の名前が出てくる。
「彼氏と行けば?」
「とっくの昔に別れてる。……ねえ、行かないなら行かないでいいけど。その、こういうのってルールとかあるの?」
「ルール?」
「だから、何分前に着かないと入れないとか、こういう服はダメとか」
私は村中をまじまじとみて、彼女の頬が微かに染まっているのに気が付いた。そして村中が私に話しかけてきた理由もわかった。私がクラシック音楽に詳しいと思っているんだろう、合唱コンクールで伴奏をしたから。
村中は私に助けを求めているんだ。村中のことは全然好きじゃなかったけど、無碍にする道理もなかった。
「開場時間に着いていればいいし、時間はチケットに書いてある。服は、まあ……県立ホールならどんな服でもいいんじゃないかな」
それでも不安なら、一緒に行くけど。
そう言って、私は一枚のチケットを手に入れた。
当日、駅で集合した村中はそわそわとして落ち着かない様子だった。それでも待ち合わせには遅れなかったし、チケットに書かれた番号をみて、何の問題もなく席まで辿り着いた。これなら私の付き添いなんて要らなかったんじゃないかと思うぐらいだった。
演奏が終わって、会場中に拍手が鳴り響く中、村中はただ私だけを見て、ぽつりと、ありがとう、と呟いた。
それから会場を出た私たちは、なんとなく海岸沿いを散歩しながら、お互いの話をした。
「まあ、ママはパパのことがまだ好きなわけよ。未練たらたら。パパは結婚すらしてくれなかったのにね」
「よくわかんないね」
「でしょ。パパもパパで、今さら自分のコンサートのチケットとか送ってくるし」
「うわあ、それもわけわかんない」
「まあ娘?に、聞いてほしかったのかもしれないけど。正直あたしパパのこととかピアノとかどうでもいいし。でも、そんな面倒なことになりそうなトコに、ママを連れていくわけに行かないじゃん」
村中はごみ箱に駆け寄ると、つい二時間前には丁寧に握りしめて係員に渡したチケットを、無造作に放り込んだ。
「ま、今日は来てよかったかも。なんか踏ん切りついたしね。この町も、ママも、恋愛も全部捨ててやるんだーっていう」
「いいね、それ」
「あたし、ママみたいに恋愛で人生振り回されるのだけはゴメン。絶対にああはならないって決めてるんだ」
「なんか意外。村中って恋愛が好きなんだと思ってた」
「全然好きじゃないよ。みんなやってるから彼氏とか作ってただけ。全然好きじゃなくても彼氏って作れるしね」
「へえ、そんなもんなんだ」
「そう」
あーでも、そっか、もうそういうのもいいんだ。
村中はそう呟いた。
それからあたしと村中はK大学に進んで、当初の予想とは裏腹に、二、三週間に一回ぐらいは飲みに行く仲になった。村中は結局、大学に入ってからも五回ぐらい告白されて、そのうち二人と付き合った。でも全然浮気していたし、私はそれをハイボールを飲みながら聞いてげらげら笑っていた。
<7~8月に読んだ主な本>
・不器用で/ニシダ
・母影/尾崎世界観
・言語の本質/今井むつみ、秋田喜美
<7~8月に観た主な映画>
・君たちはどう生きるか