メリア(2023/09)

 クソみたいな親のもとで育った子供は、人間になれない。

 つまり私も、メリアも、人間にはなれなかった。ということ。

 

 樋崎誠太郎は世間的には立派で成功した人間に見えるかもしれないけど、残念ながらまともな父親じゃなかった。クソみたいな男がお見合いでクソみたいな女と出会って結婚しつつ、また別のクソみたいな女と浮気した結果、一人の男の子と二人の女の子が生まれた。これが私とメリア、そしてメリアのお兄さん。

 私がメリアと出会ったのは十二歳のときだった。ちょうどそのころ、メリアのお兄さんが死んだらしい。樋崎はスペアを自分の手元で育てることにした。私の母親は樋崎から金を受け取って、私を引き渡した。私は学校のクラスの中で一番成績がよく、空気を読むのにも長けていた。(なぜかというと、少しでも母親の意に沿わないことを言うと彼女は泣き出すからだった)私のそうした長所は樋崎のお気に召した。彼は当初、つれてきたスペアに婿をとらせて会社を継がせる気だったが、次第に私を後継者にしてもいいんじゃないかと考えるようになった。彼は自分の血を継がせることを諦めきれなかったのだ。

「まあ、お前は女にしては頭がいいしな」

 樋崎は(私ももう樋崎だったけれど)たびたび私にそう言った。

 当然だが、後継者になるということに私の意見はまったく反映されていなかった。

 ところで、女は一般的に頭が悪いものだと樋崎が考えるようになったのも仕方がないことかもしれなかった。彼の一番身近にいた二人の女性――メリアの母親と、私の母親は、どちらも男に依存しないと生きていけないくせに、すぐに感情的になってヒステリーを起こすような女であり、彼の考える賢さからは最も程遠いところにいた。そしてメリアは、私が出会ったときから、類まれなる愚かさを抱いていた。一歳年下だった彼女は、父親が怒ったり、母親が叩いたりするのは、すべて自分が悪いのだと思いこんでいた。疑いすら――悪いは自分じゃなく、両親なのではないかと――欠片も抱くことはなかった。そんな無垢さが私は愛おしかった。私はメリアを啓蒙し、彼女はクソみたいな親に愛情を抱いても無駄なんだわかってくれた。両親と私たちの間には信頼関係なんてない。あるのは利害だけだ。

「だけど、ミィちゃんは信じられる?」

「そう」

 その通り。私もメリアだけを信じていた。

 私はメリアの親がメリアに教えなかったすべてのことを教えた。

 他人を貶すための百の言葉。

 自分を正当化する方法。

 勉強で手を抜いても怒られないところと、怒られるところ。

 子供だけで居座っても怒られない場所。

 冷蔵庫にあるものだけで作れるご飯。

 母親が泣きだしたときに、何て言えばこちらに干渉しなくなるか。

 眠れない夜の子守歌。

 信頼しあうということ。

 メリアが二十歳を超えたら、二人でどこか遠くへ行こうと決めていた。後継者がいなくなってあの男も慌てふためくだろうか。そうなったらせいせいする。

 どこに旅立つかを考えるのが常日頃の私の楽しみだった。北海道に住んで、一年中炬燵を出しっぱなしにするのもいい。あるいは沖縄に行って、観光ガイドになるのも。車の免許をとって、キャンピングカーで旅するのも楽しそうだ。

 楽しみだねミィちゃん、とメリアも言っていた。

 あの女が来るまでは。

「こんにちは、真莉って言います。これから、二人のお母さんになるの。よろしくね」

 メリアの母親がいなくなって、急に現れたその女は、私とメリア――と樋崎の前に今まで現れたどのタイプの女とも違っていた。穏やかに笑う彼女は、いきなりお母さんなんて呼ぶのも難しいかもしれないけどね、と優しく言った。私たちの気持ちに配慮するように。

 配慮!

 樋崎が選ぶ女が、そんな行動をとるわけがない。

 隣のメリアを見ると、ぽけっと呆けた顔で彼女を見ていた。私はその時点で嫌な予感がした。

 メリアが小声で私に囁く。

「新しいお母さん、優しそうな人だったね」

「そう? どうでもいいかな」

 嫌な予感は的中して、メリアはこの「新しいお母さん」に一瞬で懐いた。幸いに、と言っていいのか、真莉は珍しくまともな母親だった。だからこそ、たまにふっと絶望のようなものが頭をよぎることがあった。それはたとえば、手作りのパウンドケーキを食べたときとか。バイト代で買ったミニスカートを褒められたときとか。樋崎の言動をやんわりと窘める様子を見たときとか。まともな人間に育てられたまともな人間は、こういう大人になれるのか、と。

 けれどもその絶望はまあ、私の問題だし、私も今さら人間になれるわけじゃないんだから仕方ない。

 私の頭を悩ませたのはメリアだった。十一歳のときから大事に育ててきたメリア。それが一瞬でミルクの匂いがするような女に盗られるなんて。

 今まで私の生徒会活動が終わるのを教室で待っていたメリアは、学校が終わったらすぐ家に帰るようになった。十九時に家に着くと温かいご飯が食卓に並んでいて、真莉さんと一緒に作ったんだよと自慢げに笑うメリアがいる。メリアはどんどん、どこかにあった陰を失い、家庭的で穏やかな女の子になっていった。まるで樋崎真莉みたいに。

 大人になったら遠くへ行こうという話はどうなったの?

 そう尋ねることが私にはできなかった。

 無垢だった十一歳のメリアならば、いくらでも思い通りにできる未来が見えたけれど、真莉さんに汚染されたメリアが私の言葉にどう反応するのかわからなかった。嫌な想像ばかりが思い浮かんだ。

『遠くへって、そんな子供みたいなこと、まだ言ってるの?』

 この想像はまだマシ。

『ごめんね。あたし行けない。だって、真莉さんを置いていけないもん』

 自分の想像力を恨みたくなるぐらい最悪な未来だ。

 メリアも私と同じように、人間になれなかった子供だと思っていた。でも違うのかもしれない。何しろ、メリアを実質育ててきたのは私だし、こうして真莉さんというまともな母親を得ることができたんだから。

 メリアは、人間になれたのかもしれない。

 春が来て、私は志望校の欄に日本で一番有名な大学を書いた。樋崎誠太郎は満足げに頷いた。この反応は想定通り。問題ない。樋崎真莉はすごいねえと笑った。これも想定通り。

 深夜十一時、メリアが鍋でホットミルクで温める様子から目を反らしながら、大学決めたんだよね、と私は呟いた。

「ええ、その大学、あたしも行けるかなあ」

 メリアが当然のように私と同じ大学に進もうとしていることに安堵する。

「どうだろう、私はこれからメリアの勉強をあまり見られなくなるし。このままだと、無理なんじゃないかなあ」

「え」

 メリアの視線が私に向く。のを感じる。

「、じゃあ、あたし、どこに行けばいいの?」

「うーん、まあ、どこでも、別に父さんは許してくれると思うけど」

「え、あたし、ミィちゃんが相談に乗ってくれると思って……」

「メリアの将来なんだし、メリアで考えたら?」

「え、でも、あたしの将来はさぁ……」

「ねえ、鍋、もういいんじゃない?」

「ミィちゃん、……なんか、怒ってる?」

「鍋、沸騰してる」

「ミィちゃん……」

「沸騰してるってば! メリア!」

 メリアを見ると、彼女はぼろぼろと涙を零していた。動揺する。自分がメリアを泣かせたこと、を喜んでいる自分がいて。

「なんで、あたし、ミィちゃんと一緒にいるって言ったじゃん。ミィちゃんとならどこにでも行くし、ミィちゃんの将来が、あたしの将来なんだもん。なのに、ねぇ、なんで? なんでミィちゃん、あたしに冷たくするの? あたしのこと、もう嫌いになった?」

「なってないよ」

「なってる……」

「なってないって」

「なってる!」

「父さんたちが起きるから、大きな声やめて」

「ミィちゃん、ひどい…………」

 私は、ため息をついてメリアに近寄った。コンロのつまみを回して火を止める。少し焦げたような臭いがした。

「ごめん、ちょっと自分のことばっかり考えてた。でも、メリアのことは大好きだから」

「ほんとう?」

「本当だよ」

 私はメリアを後ろから抱きしめた。愛おしい私のメリア。

 泣き出したメリアは、彼女のお母さんそっくりだった。結局私もメリアも、人間にはなれなかったんだな、と痛感する。

 でも仕方がない。クソみたいな親に育てられた宿命だから。実際のところ世の中こんな人間モドキばっかりなんだろう。それでも上手く世の中は回っていくのだ。メリアの頭を撫でながら、私の脳裏には沖縄の美しい青い海が広がっていた。

 

※blogで公開したのは11月ですが、初出はTwitter(2023/9/30)です。

 

<9月読んだ主な本>
・ツナグ/辻村深月
・流浪の月/凪良 ゆう
・わたしの美しい庭/凪良 ゆう
・親といるとなぜか苦しい: 「親という呪い」から自由になる方法/リンジー・C・ギブソン