Champagne(2023/3/1)

 籍だけ先に入れて、結婚式は落ち着いてからにしよう。そう決めたのは自分だったけれど、夫婦になるというのがこんなにもあっけなく終わることだとは不思議だった。記念日だからととったホテルの窓から、ぼうっと夜景を眺めていた。

 好きな女と結婚して、夫婦になる。仕事も順調だ。大手企業で、来年にはチームを任せてもらえると思う。はたからみれば、順風満帆な人生に見えるだろう。事実その通りだ。

 幸福だ。あるべき生活を、やっと手に入れられた。そんな気分だった。

「あーくん」

 背後から声をかけられる。美崎が――妻がシャワーからあがったのだ。

「外を見てたの?」

「ああ、うん」

「本当に高いよね、ここ。スカイツリーも見えるんじゃない」

「たぶん方角が逆だな」

「そっか」

 美崎はいつものように、柔らかく微笑んでいた。

「あーくん、寝る前にちょっと飲む? シャンパンが冷蔵庫で冷えてたよ」

「せっかくだし、そうしようか」

 美崎が棚からシャンパングラスを取り出す。俺は冷蔵庫からシャンパンを取り出して、口を開けた。

 二人分注いで、乾杯、とグラスを合わせる。

「……うん、美味しいね」

「そうだな」

 目の前で笑う美崎を見ながら、かつての会話を思い出していた。

「わたし、恋愛感情っていうものがわからないんです」

 四回目のデートで、彼女はそう言った。

「でも、結婚したい。人生のパートナーはいてほしいし、子供も欲しいんです。だって、一人きりで生きていくのは、やっぱり不安じゃないですか。重大な決断をすべて一人で決めていくのは、重いし、わたしには耐えられないです。それに、家族が欲しくて。わたし、子供が好きなんです。きっと、自分の子供ならもっと可愛い。恋愛が出来ないってだけで、人を好きになって、告白して、両想いになって、お付き合いを続けて、ってそういうルートを歩めないってだけで、全て諦めなきゃいけないんですか? そんなことないですよね? わたしだって、家族を持つって夢を叶えてもいいですよね?」

 俺は圧倒されて、ただ頷くことしかできなかった。

「……すみません。でも、伝えずに、お付き合いしていくのは卑怯だなと思いまして。つまり、わたしは結婚を前提にお付き合いをしたいんです。佐伯さんのことは素敵な人だと思っています。趣味も合うし、真剣な話もできる。何より、現時点の話ですけど、信頼できると思ってます。……佐伯さんは、どうですか?」

「俺は、」

 そう口火を切ったけれど、何を話せばいいのかわからなかった。信頼できると言ってもらえるのは嬉しい? 俺は貴方のことを好きになりかけている?

 美崎はただ黙って俺の返事を待っていた。

「俺には、かつて恋人がいたんです。俺たちは愛し合ってた。本当に好きだったんです。嫌いになるところなんて一つもなかった。……でも、俺が関係性を終わらせたんです。だって、俺は、」

 俺は、人前で泣かないようにと目頭に力を入れた。

「俺も、結婚したかった。子供も欲しかった。恋人がいるかと聞かれるときに口ごもりたくなかった。普通の人に、なりたかったんです。……俺は、愛より人生をとった人間です」

 彼女は震える俺の手を握った。

「幸せに生きていくのに、愛は必ずしも必要ないですよ。わたしたちで証明しましょう」

 そうして俺は美崎という人生の幸せを手に入れて、失恋したのだった。

「……あーくん、後悔してる?」

 そう声をかけられて、我に返った。グラスを手に固まっている俺を、美崎が見ていた。

「いや」

 強くそう言う。

「会ったころのことを、思い出していた。美崎を選んでよかったなって」

 あのころからずっと、美崎を思う気持ちは強くなっている。俺は彼女に恋愛感情を抱いていることを、自覚している。でもそれを彼女に言うつもりはない。苦しめるだけだからだ。

 それにこの気持ちも、結婚して、子供が生まれて親になれば、薄れて別の連帯感に変わっていくだろう。

「うん。わたしもそう思う。あーくんを選んで、あーくんに選ばれてよかった」

 そう微笑む美崎を見ていると、ただ、幸せだ、という気持ちが溢れてくる。

 いまだ心には、ぽっかりと空いた穴がある。俺の可愛い透を手放したときからずっと空いている穴だ。そして美崎を選んだ時点で、その穴が埋まることは永遠になくなった。でも、俺は幸せにならなくてはいけない。それが透を捨てた俺の責務だと思っている。

<2月に読んだ主な本>
裏世界ピクニック8 共犯者の終り