throat

 音楽家にとって楽器は第二の喉だ。あるいは、第一かもしれない。

 楽器の音色は、俺たちの感情をどんな言葉よりも微細に写し出す。もちろん、ある程度の技能があれば、という前提だが。

 

 母の喉は、ヴァイオリンだった。

 今でも思い出すことがある。その日の夜、俺はベッドの中で目を覚ました。時計を見ると八時を指していた。夕食を食べ損ねていたが、空腹感はなかった。それよりも、全身を包み込むような熱量に浮かされていた。家の中はしんと静まり返っていて、母の気配はなかった。ベッドに入る前に、学校から早退した理由を母には伝えていたのに。倦怠感があって、保健室で測ったら三七度を超えていたのだと。

 俺は階下に降りて、救急箱から体温計を取り出して脇の下に挟み込んだ。一階にもやはり母の姿はなかった。立っているのも辛く、リビングのソファに座り込んだ。手近にあったリモコンでテレビを点ける。

 画面いっぱいに、ヴァイオリンを弾く母の姿が映し出された。

 舞台上には様々な楽器を持った演奏者がいたが、母と指揮者だけが立っていた。――正確には、コントラバシニストと打楽器奏者も立っていたが。母は指揮台の隣に立ち、指揮者と目を合わせながら、ひとり優雅に主旋律を弾いていた。

 ピピ、と機械音が演奏を遮る。液晶画面を見ると、三と九が並んでいた。暗い部屋には、ソリストに選ばれた母の歓喜の音色が響き渡っていた。

 

 もちろんこれは幼い子供の目から見た記憶であって、母がテレビで生中継されるようなコンサートに出ていたことはない。しかし、発熱した一人息子を家に置き去りにして、なにがしかの演奏会に出ていたのは間違いないだろう。

 母は息子よりもヴァイオリンを愛していた。

 

 俺は母親が嫌いだ。とはいえ、今更、母に対して恨み言を述べるつもりはない。俺だって似たようなものだ。この世の何よりもヴァイオリンを愛していた。恋人や友人に、お前には人情がない、ヴァイオリン弾くための道具だと何度言われたことか。子供を持たない分、母よりも良識はあったが。

 ただ、英美里お嬢様のためにヴァイオリンを弾いていると、母のことをたびたび思い出す。それから、もしかしたら自分は英美里お嬢様を愛しているのかもしれない、ということも。

 英美里お嬢様は、俺の音が欲しいと言った。あの日弾いたサラサーテには、チャリティの対象となった子供たちへの想いを込めていた。それを泣いているようだと読み取った英美里お嬢様の感受性に、俺は惚れ惚れとした。ヴァイオリニストでもない彼女がそれを読み取れただなんて。素直に尊敬した。その感情は間違いではなかった。彼女の人生には一点の曇りもない。生まれも、才能も持ち合わせ、その上で努力してきた――努力しない、という選択肢は彼女の人生にはなかったからだ。ヴァイオリニストの元に生まれた自分は恵まれていると思っていたが、格が違う、人を動かすために生まれてきた人間はこういう風に育つのだと何度も驚かされたものだ。

 有難いことに、一年が経っても俺はまだ解雇されていない。一か月に一、二度、英美里お嬢様に呼ばれてヴァイオリンを弾きに行き、数か月に一度はパーティに呼ばれて腕前を披露することになる。招待客は大抵、高難易度と言われる曲をリクエストし、俺はそれに応えることになる。俺の後ろで英美里お嬢様は可笑しそうに口元を扇子で覆っている。彼女が言いたいことは想像がつく――まあ、そんな曲が皆さまは聴きたいのね、不思議なことだわ。そんなところだろう。

 それ以外の時間は好きにしていいと言われているので、用意された家で一日中ヴァイオリンを弾いている。結局のところ、親にも愛されなかった俺の手の中にあるのはヴァイオリンをだけだし、それに、もし仮に俺がヴァイオリンを弾けなくなったら英美里お嬢様は俺のことを捨てるだろう。

 ヴァイオリンを弾けなくなれば捨てられる、その焦燥感はこの上なく有難い。俺は昨日よりも今日、今日よりも明日、上手く弾けるようになる。昨日は覚えていなかった譜面をそらで弾けるようになり、今日はまだ表現できていない感情を音に乗せられるようになる。一日一日、確実に成長していく。結局のところ、音楽を極めるにはそれしかない。

 俺は母のようにはならないだろう。そう確信できたことにほっとする。

 

 母は、俺が熱を出した日から十年後に、男と家を出て行った。それ以前にも何度か家に来たことがある、有り触れて平凡で、上手だね、それ以上の誉め言葉を持っていない男だ。俺はその男が嫌いだったが、母はそうではなかった。それきり、界隈で母の名前は聞かなくなった。彼女は息子よりもヴァイオリンを愛していたが、ヴァイオリンよりもあの男を愛したのだ。息子を大切にできないのは仕方がなかったとして、音楽を捨てられるだなんて、心底軽蔑する。

 母の喉は潰れてしまった。

 熱に浮かされて聴いたヴァイオリンソロは、もう記憶の中にしか残っていない。