いつか私になるまで(2023/06)

 たとえばショーケースの中に並べられた食品サンプルがあるとする。スパゲッティでもハンバーグでもフルーツが沢山乗ったパフェでもいい。とても美味しそうで、食欲をそそられる。貴方はそれを食べたいと思う。それを――つまり、サンプルではなく、本物を。結局綺麗に色付けされて並べられた食品サンプルは偽物でしかなく、それ自体を食べたいと思う人はいない。
 私は、そういう存在だ。
「食べたいの?」
 ショーケースに、イトの顔が映りこんだ。私は首を横に振る。
「うーん、まあ、いいかな。けっこう高いし」
「食べるとしたら、どれ?」
 私はフライドポテトを指差した。
「……ミミなら、フルーツデラックスパフェを選んでた。イチゴもメロンもバナナも全部食べたくて選べないって言いながら」
「仕方ないじゃん、私はミミじゃないんだし」
 振り返ってイトの顔を見ると、その目がうるんでいた。ぎょっとする。
「ちょっと、泣いてるの?」
「泣いてない」
「泣いてなくても泣く寸前じゃん」
「うるさい」
 イトは私を置いてバイクの元へと歩き出した。
「えー、ねえ、待ってよ」
 慌てて追いかけて、後ろから話しかける。
「これぐらいで泣かないでよ、私がミミじゃないのなんて、今に始まったことじゃないんだし」
「わかってる」
「どちらかって言うと、泣きたいのは私のほうじゃない? いつか死ぬ、っていうか消えることが決まってるんだし」
「そんなことないかもしれないじゃん。ムムは消えないままで、ミミは帰ってこないままかもしれない」
「大丈夫だよ」
「ムムってほんと楽観的。なんで断言できるの?」
「楽観的なのは、私がそう作られたからだけど」
 悲しみとか、絶望とか、そういうものを抱かないように。希望なんか最初から抱かないように。勝手に期待して裏切られるだけで傷ついてしまうから。そうして諦めとともに、ただ毎日を生き延びられるように。ミミと同じく消えてしまいたいと思わないように。
「だって、イトが一緒だもん。こんなにもミミのこと大切にしてくれる人がいる世界に、きっと帰ってきたいって思うよ」
「……そうなことないよ」
 バイクの元に辿り着いたイトが振り返る。頬を一筋、雫が伝っていた。私はそれを指先で拭ってあげる。
「ミミを一番傷つけたのはあたしだもん」
「うーん、そうかもしれないけど、後悔しているのは伝わると思うよ。夏休みまるごとミミのために使ってくれるなんて、ミミのことを想っていないとできないし」
「……行こ」
 イトがヘルメットを投げてよこした。
「次はどこに行くの?」
「水族館。中学一年の夏に、一緒に行った」
「ああ、あそこね」
 目玉の大水槽。カニやヒトデに触れるふれあいコーナー。記憶を引き出すことはできる。けれど、そこには何の感情もわかない。無声映画を眺めているような感覚だ。
「ミミは、イワシの群れをすごいすごいって無邪気に眺めていた。小さな魚が集まるだけで、こんなにも強い存在になれるんだって」
「覚えているよ」
 記憶しているだけで、私が抱いた感情ではないけれど。
 やっぱり私は偽物で、イトが私で満足してくれることは永遠にないんだろう。
 だからいつかは、ミミと交代しなければいけない。ミミだけを求めてくれるイトのために。それは悲しいことだけれど、私はその悲しさを諦めで受容できるようになっているのだった。
 バイクに跨るイトの体を支えにしながら、その後ろに乗る。イトがエンジンをふかした。
「――――、――――――――――」
「え、イト、なに!? 聞こえなかった!」
「なんでもない!」
 加速度。イトの体に慌ててしがみついた。
 結局イトは何て言ったのか教えてくれなかった。大したことじゃなかったんだろう。
 バイクの振動に揺られながら、ガードレールの向こうに広がる海を眺めていた。きらきらと輝く海は、宝石が敷き詰められたみたいだ。こんなに綺麗なものを見られたなら、生まれてきた意味があったな、と思う。
 いつか私がミミになるための旅は、今日も順調に進んでいた。

 

<5月に読んだ主な本>
・猫を抱いて象と泳ぐ/小川洋子
・不村家奇譚/彩藤アザミ

<5月に観た主な映画>
岸辺露伴ルーヴルへ行く
名探偵コナン 黒鉄の魚影