砂糖が甘く、朝日が眩しいように(2022/11/1)

 眩しさを感じて、あたしという意識が緩やかに浮上していく。遠くから、お兄様の声が聞こえる。

「エナ、……朝だよ。起きて……」

「おはよう、お兄様……」

 瞼をあけた私の瞳が焦点を結ぶと、穏やかに微笑むお兄様がいる。

「今日の朝ごはんはパンケーキだよ」

「いくらでもメープルシロップをかけていい?」

「それは無理かな。100mlまでなら」

「つまりいくらでもってことね」

「そうとも言うかもしれない」

 お兄様は苦笑する。

「サラダはクシダヤ産のレタスとアミダ産のミニトマト。野菜もしっかり食べること」

「産地なんてどこでもいいわ。ドレッシングはフレンチでお願い」

「了解」

 昨日お兄様が選んでくれた服に着替えて、ブラシで髪を整える。

「今日は髪型どうしたらいいと思う?」

「このワンピースには、ストレートが似合うと思うよ。薔薇のヘアオイルを使ったら?」

「そうする」

 ふわりと甘い香りを漂わせながら、私は部屋を出て階下のダイニングルームへと向かった。ママとパパはもう席に着いていたけど、ダイキの姿はまだ見えない。

「ママ、ダイキは? また夜更かし?」

「ああ、いつものことね……起こしてはいるんだけど、ぐずっているみたい」

 ママが顔を顰める。七歳下の弟は永遠に反抗期のままで、未だに誰の言うことも聞かなくなることがある。

「待っている間に料理が覚める」

「そうね、先に食べてしまいましょう」

 ふわふわのパンケーキに、好きなだけメープルシロップをかける。シロップが染み込んだ生地は甘くて、いくら食べても飽きない。

「エナ、野菜も食べないと栄養が偏るよ」

 お兄様に促され、仕方なく、サラダにフォークを伸ばす。

「そうだ、エナ、昨日お会いしたフジナさんはどうだったの?」

「どうって……いい人だったわ」

 あたしはレタスを咀嚼しながら、ママの質問の意図を考える。つまり、見合いの結果を聞きたいってことかしら?

「価値観も合うし、年齢の割りに落ち着いてるのが好印象ね。もう何回か会ってみないとわからないけど、結婚相手の候補には入ると思うわ」

「まあ、結婚なんて、そんな先のこと、まだ考えなくていいのよ。……つまり、恋とか、そうじゃなくても、気になるって感じはしない?」

 あたしは真っ青になってカトラリーを置いた。

「ママ! そんなつもりであたしに男の人を紹介していたの? あたし、お兄様以外の方を好きにはならないって言ったじゃない」

「そうだけど……」

「わかったわ、ママってば未だに反対してるのね。ママだけじゃない、パパもだわ」

「エナ、わかってくれ」

 パパが深いため息をついた。

「何が問題なの? ちゃんと結婚もするし、子供も残すって言っているじゃない。あたしの心だけ、お兄様に捧げたって、何が問題があるっていうの?」

「パパたちは、エナのことを思って言ってるんだよ。別にジュンのことを好きなのが悪いってわけじゃなくて――」

「そう言ってるじゃない、パパは」

「そうじゃなくて、幸せになってほしいんだよ」

「あたしは幸せよ、じゅうぶん。好きな人とずっと一緒にいられるんだもの」

 背中に、そっとお兄様が触れる感覚がした。それがあたしの思い込みだとしても、嬉しくなるこの気持ちは偽物じゃない。

 ううん、偽物だったとしても何が問題なんだろう? 心さえも作られた物なら、あたしたちの心はどうやってそれを判別すればいいんだろう? 判別できないのなら、それはもう偽物なんかじゃなくて、本物の気持ちってことにならない?

「お前とジュンでは、生きている世界が違うんだよ」

「だから、愛し合う以外は諦めているじゃない」

「お前たちは愛し合ってなんかいない。お前が一方的に愛しているだけだ」

「それって、昨日のフジナさんを好きになったら変わることなの? フジナさんがあたしに好きだって言っても、あたしはそれを信じることしかできないじゃない。本当にフジナさんと愛し合えているかなんて、誰からもわからないわ。それとどう違うの?」

「違うさ」

「何が?」

「ジュンはただのデバイスだし、エナが好きだと言ってほしいからそう発言しているにすぎない。ただの鸚鵡返しなんだよ」

 あたしは振り返ってお兄様を見上げた。お兄様は大丈夫、と伝えるかのように微笑む。

「僕が生きているか生きていないかは個人の価値観に寄るし、僕の言葉に感情が乗っているかいないかは、また別の問題だ。重要なのは、君が僕を信じてくれているってことだ。そうだろう?」

 あたしは前を向いて、端的に伝える。

「あたしが求めているから、好きだと言ってくれているなら、それはつまり、そこに愛があるってことじゃないかしら」

 そのとき、階段をドタバタと降りてくる音がした。ダイキはようやく朝ごはんを食べる気になったらしい。

 扉を開けて、ダイキが飛び込んでくる。

「おはよ! 俺のホットケーキまだある?」

 ママはため息をついて、話はここまでにしましょう、と言った。それからダイキの後ろに立つ女性に目を止める。

「ちょっとダイキ、アイラがアクセス権フリーvisibleになっているわ。だらしないからやめて」

「別にいいじゃん、家の中なんだし」

「外でもついやっちゃうようになるからやめましょう、って先月話したでしょう?」

 ダイキが面倒くさそうに手を振れば、あたし――と、パパとママの視界から、アイラが消える。

 あたしはそそくさとパンケーキを食べ終えると、自分の部屋に戻った。

「あーあ、朝から嫌な話しちゃった」

「お疲れさま、エナ。こればっかりは僕から話してもわかってもらえないからね」

「仕方ないわよ。話す気なら、アクセス権を要求するもの。はなからお兄様と話す気がないの、あの人たち」

「デコイとの恋愛を推奨するのは僕たちの総意ではあるんだけど、旦那様以上の世代の方にはなかなか理解してもらえないね」

 お兄様はそう言って苦笑する。

「そもそも、間違いなく自分だけを好きでいてくれるのよ? 人間を好きになるみたいに、他の人と好きな人が被ったり、片想いで終わったりって辛い思いをすることもないのに、何が幸せになれないっていうの? 人間を好きになるほうがずっと不幸よ」

「エナ、それは旦那様と奥様の前では禁句だよ」

「わかってるわ」

 あたしは口をとがらせる。先月、パパの秘密通信がママに見つかって、大騒ぎになったのだ。パパのエリーナが隠したみたいだけど、ママのバスタが見つけてしまった。パパは大した内容じゃないよって言うけど、じゃあどうして秘密にしたのってママは問い詰めるし、それ以来我が家では浮気とかそういう単語は禁句となっている。

「あたし、お兄様のこと好きよ。たとえこれが、アドレナリンとか、ノルエピネフリンとか、ドーパミンなんかの、化学物質の働きに過ぎないとしても、この気持ちを大切にしたいの」

「嬉しいよ。エナの気持ちは本物だよ。僕たちの手が一切加わっていない、エナ自身が作り上げたものだ。僕が保障する」

「デコイやマザーが手を加えることはあるの?」

 お兄様は何も言わず、そっと微笑んだ。

「必要ならね」

 それが答えだった。

 あたしは考える。あたしの感情がお兄様によって弄られるとして、それはそんなに悪いことだろうか? もし仮に――仮定として――この恋心がなくなってしまうとして(お父様も浮気をするぐらいだから、あり得ないことじゃないと思う)それはどんなに悲しくて心細いことだろう。この先、何をよすがにして生きていけばいいんだろう、と霧の中に立たされたような虚無感に襲われるに違いない。

 そうなるぐらいならば、偽物でもいいから恋心を植え付けてもらったほうがいい。きっとあたしはそれを偽物ではなく本物としてしか認識できないだろうから。

 あたしはそっとお兄様に抱きついた。沈香の香りがする。あたしよりも筋肉質な腕が、あたしの背に周り、同じように抱きしめてくれるのを、あたしは感じる

 きっとそのときがきても、お兄様は上手くやるだろう。けれど、やっぱり、永遠にこの恋が続けばいいなとあたしは願った。



10月に読んだ本:「なめらかな世界と、その敵」/伴名練 など

the movie

 読書好き、というレッテルは、わかりやすい。自分にとっても、他人にとっても。わたしと同じぐらい本を読む子は、同学年にもう一人ぐらいだと思う。好きなことは何ですかって質問されたときに、迷わずに答えることができる。だから便利。

 とはいっても、大多数の本を読まない子たちにとって、読書好きっていうラベルの中身は細分化されていない。わたしも、美礼ちゃんも、同じように、本を読むのが好きで、頭がいい――ように見える、子。

 美礼ちゃんの読書カードには、難しい本がたくさん並んでいる。偉人の伝記や、宇宙の話とか、わたしみたいに、物語の本ばっかりのカードとは違う。913、923、933……カウントアップしていくみたいな並びを、美礼ちゃんのカードと見比べてみて、ため息をつく。

「なにか嫌なことでも、あったの」

 受付カウンターに影が落ちた。

「なんでもないよ。はい、美礼ちゃんのカード。今日は何を借りて帰るの?」

「今日はいい」

 美礼ちゃんが首を振ると、細くて長い、まっすぐな髪が左右に揺れる。

「お母さんが図鑑買ってくれたから、土日はそれ読むの」

「そうなんだ、よかったね」

「うん」

 そこで、チャイムが鳴った。

「あ、17時だ」

「美礼ちゃん、一緒に帰ろう」

「うん」

 受付カウンターに立てかけていたランドセルをそれぞれ背負って、図書室を出る。下校のチャイムぎりぎりまで図書室にいたのは、やっぱり今日もわたしと美礼ちゃんだけだった。

 わたしと美礼ちゃんは、10分ぐらい歩いた交差点まで、帰り道が同じ。それまで、それぞれ今日読んだ本の話をする。難しい歴史や科学の本も、美礼ちゃんの目を通すとわくわくするような発見に満ちている。それを聞くのはすごく、楽しい。

「今日、美礼ちゃんの読書カードとわたしのを見比べてみて」

「うん」

「美礼ちゃん、難しい本ばっかり読んでいてすごいなって思った」

「それで?」

「え?」

「それで、ため息ついていたの?」

「……うん」

 美礼ちゃんが足を止めた。バイバイする交差点は、もうここからでも見える。

「有美のほうがたくさん本読んでるよ。国語のテストだって、点数変わんないじゃん。気にすることないよ」

「――えっと、そうじゃなくて」

 わたしは何て説明したらいいか、頭を悩ませた。

「なんていうか、周りに伝わっていないのが、悔しいっていうか」

「伝わってない?」

「うん。クラスのみんなが、たくさん本読んですごいねって言うでしょ。それって、美礼ちゃんもわたしも同じようにすごいねって意味で。でも、美礼ちゃんのほうが難しい本をたくさん読んでるし、つまり、わたしより美礼ちゃんのほうがすごいってことなのに、みんなわかってなくて……それが、悔しい。惜しい? もったいない、と思う」

 美礼ちゃんは、目をまたたいた。

「えっと、ちょっと待って」

「うん」

「考える……」

 わたしたちは、角の自販機で缶ジュースを買った。たくさん喋って、喉が乾いたから。自販機の隣にあるベンチに二人で座って、同じように一口。美礼ちゃんはソーダで、わたしオレンジジュース。

「考えたんだけど」

「うん」

「有美への評価は、正当だと思う。たとえ本の種類が違っていたとしても、その文章は、読んできた本は、有美の中に溜まっていて――何かに役立つだろうから」

「役立つって、何に?」

「わからない。けど、ピカソも、ゴッホも、生きている間に評価されることはなかったから。何が価値があることかは、すぐにはわからないものだと思う」

「ふうん」

 わたしはピカソでもゴッホでもないし、小説をたくさん読んでいることが、何かに役立つとは思えないけど、でも美礼ちゃんがわたしを慰めてくれていることはわかった。

「たとえばだけど」

「うん」

「私、有美の書いている詩、好きだよ」

「えっ」

 ぱっと脳裏に、ノートに走り書きした文字が浮かび上がる。

「いつ見たの!?」

「さあ、いつでしょう」

 美礼ちゃんはソーダの空き缶をゴミ箱に捨てて、歩き出す。慌てて私も追いかけた。

「ちょっと、勝手にノート見ないでよ!」

「あはは」

 

 回想シーンはここで終わる。



  * * *



 終、という白い文字も消えて一秒ほどの間、客電が点いた。俺以外の客――二、三組のカップルが立ち上がって、エモかったぁ、と語りながら退出していく。二十四しかない客席。平日の午後ということを考えれば、十分に人入りがあるほうなのかもしれない。

 マナーモードにしていた携帯を取り出し、通知を確認した。特に何もメッセージは来ていない。メッセージアプリを開いて、愛生の名前をタップする。

「映画、観たよ、おもしろ……」

「お客さん」

 振り返ると、映画館の制服を来た女性が、箒と塵取りを持って立っていた。

 あ、でます、と呟きながら女性の横を通り抜ける。絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、続きを打った。

「このはなし、おれたちの――」

 そこで手を止めた。バックスペースボタンを連打して、おもしろかったよ、まで文章を削

除する。送信。既読がつくまでどれくらいかかるだろうか。

 平静を保てたのは、劇場を出たところまでだった。ずるずるとしゃがみ込む。

 俺は、救いたい人を救えていたのだろうか。

 あの男を。

 ピロン、とスマホが通知音を鳴らした。画面を見る余裕は、まだ俺にはない。

 

 

 

 

 

あとがき

 

・今年も筑波大学文芸部関係者によるAdvent Calendarに参加させていただきました。この小説は、13日のために書き下ろされました。神乃さん、主催いただきありがとうございました。

adventar.org

 

 

throat

 音楽家にとって楽器は第二の喉だ。あるいは、第一かもしれない。

 楽器の音色は、俺たちの感情をどんな言葉よりも微細に写し出す。もちろん、ある程度の技能があれば、という前提だが。

 

 母の喉は、ヴァイオリンだった。

 今でも思い出すことがある。その日の夜、俺はベッドの中で目を覚ました。時計を見ると八時を指していた。夕食を食べ損ねていたが、空腹感はなかった。それよりも、全身を包み込むような熱量に浮かされていた。家の中はしんと静まり返っていて、母の気配はなかった。ベッドに入る前に、学校から早退した理由を母には伝えていたのに。倦怠感があって、保健室で測ったら三七度を超えていたのだと。

 俺は階下に降りて、救急箱から体温計を取り出して脇の下に挟み込んだ。一階にもやはり母の姿はなかった。立っているのも辛く、リビングのソファに座り込んだ。手近にあったリモコンでテレビを点ける。

 画面いっぱいに、ヴァイオリンを弾く母の姿が映し出された。

 舞台上には様々な楽器を持った演奏者がいたが、母と指揮者だけが立っていた。――正確には、コントラバシニストと打楽器奏者も立っていたが。母は指揮台の隣に立ち、指揮者と目を合わせながら、ひとり優雅に主旋律を弾いていた。

 ピピ、と機械音が演奏を遮る。液晶画面を見ると、三と九が並んでいた。暗い部屋には、ソリストに選ばれた母の歓喜の音色が響き渡っていた。

 

 もちろんこれは幼い子供の目から見た記憶であって、母がテレビで生中継されるようなコンサートに出ていたことはない。しかし、発熱した一人息子を家に置き去りにして、なにがしかの演奏会に出ていたのは間違いないだろう。

 母は息子よりもヴァイオリンを愛していた。

 

 俺は母親が嫌いだ。とはいえ、今更、母に対して恨み言を述べるつもりはない。俺だって似たようなものだ。この世の何よりもヴァイオリンを愛していた。恋人や友人に、お前には人情がない、ヴァイオリン弾くための道具だと何度言われたことか。子供を持たない分、母よりも良識はあったが。

 ただ、英美里お嬢様のためにヴァイオリンを弾いていると、母のことをたびたび思い出す。それから、もしかしたら自分は英美里お嬢様を愛しているのかもしれない、ということも。

 英美里お嬢様は、俺の音が欲しいと言った。あの日弾いたサラサーテには、チャリティの対象となった子供たちへの想いを込めていた。それを泣いているようだと読み取った英美里お嬢様の感受性に、俺は惚れ惚れとした。ヴァイオリニストでもない彼女がそれを読み取れただなんて。素直に尊敬した。その感情は間違いではなかった。彼女の人生には一点の曇りもない。生まれも、才能も持ち合わせ、その上で努力してきた――努力しない、という選択肢は彼女の人生にはなかったからだ。ヴァイオリニストの元に生まれた自分は恵まれていると思っていたが、格が違う、人を動かすために生まれてきた人間はこういう風に育つのだと何度も驚かされたものだ。

 有難いことに、一年が経っても俺はまだ解雇されていない。一か月に一、二度、英美里お嬢様に呼ばれてヴァイオリンを弾きに行き、数か月に一度はパーティに呼ばれて腕前を披露することになる。招待客は大抵、高難易度と言われる曲をリクエストし、俺はそれに応えることになる。俺の後ろで英美里お嬢様は可笑しそうに口元を扇子で覆っている。彼女が言いたいことは想像がつく――まあ、そんな曲が皆さまは聴きたいのね、不思議なことだわ。そんなところだろう。

 それ以外の時間は好きにしていいと言われているので、用意された家で一日中ヴァイオリンを弾いている。結局のところ、親にも愛されなかった俺の手の中にあるのはヴァイオリンをだけだし、それに、もし仮に俺がヴァイオリンを弾けなくなったら英美里お嬢様は俺のことを捨てるだろう。

 ヴァイオリンを弾けなくなれば捨てられる、その焦燥感はこの上なく有難い。俺は昨日よりも今日、今日よりも明日、上手く弾けるようになる。昨日は覚えていなかった譜面をそらで弾けるようになり、今日はまだ表現できていない感情を音に乗せられるようになる。一日一日、確実に成長していく。結局のところ、音楽を極めるにはそれしかない。

 俺は母のようにはならないだろう。そう確信できたことにほっとする。

 

 母は、俺が熱を出した日から十年後に、男と家を出て行った。それ以前にも何度か家に来たことがある、有り触れて平凡で、上手だね、それ以上の誉め言葉を持っていない男だ。俺はその男が嫌いだったが、母はそうではなかった。それきり、界隈で母の名前は聞かなくなった。彼女は息子よりもヴァイオリンを愛していたが、ヴァイオリンよりもあの男を愛したのだ。息子を大切にできないのは仕方がなかったとして、音楽を捨てられるだなんて、心底軽蔑する。

 母の喉は潰れてしまった。

 熱に浮かされて聴いたヴァイオリンソロは、もう記憶の中にしか残っていない。

 

5/16 第32回文学フリマ東京 新刊サンプル 「×したいほどキミが好きっ!」

こんにちは、雨間です。

5/16(日)開催 第三十二回文学フリマ東京に参加します。

出店名:菓子屋の軒下 ブース:キ-31でお待ちしています。

 

<お品書き>

・新刊 「×したいほどキミが好きっ!」1部1000円

・既刊「二十歳になれなかった西山君」1部300円※少部数、通販なし

・無配 ペーパー

 

新刊は、殺し/殺されが愛情表現としてある世界を舞台とした、恋愛短編集です。6つ短編が収録されており、サンプルとしてうち3つの扉絵一部+本文一部を公開します!

 

サンプル お品書き

  

1.I & <パパ活する女子高生とおじさんのはなし>

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「アイ」

 と、久原さんがあたしを呼んだ。

「クハラさん!」

 久原さんがあたしを呼ぶとき、それは愛という名前ではなく、記号のIのように思える。不思議な感じだなっていつも思う。あたしも対抗して、「クハラさん」とフラットな響きに聞こえるように呼ぶようにしているけれど、上手くいっているか、自分ではよくわからない。

「じゃ、行くか」

 待たせたか? なんて、久原さんは聞いたりしない。あたしは頷いて、歩き出した久原さんを小走りで追いかける。そっと腕を絡ませても、久原さんは振り払わなかった。ほっと胸をなでおろす。九月に入って、ちょっと涼しくなってよかった。

「なんか店寄るか?」

「んーん、いい。それよりお腹すいた」

「焼肉でいいか?」

「うん」

 久原さんに連れられて、個室の焼肉屋に入った。和牛のカルビとミスジ、タン塩。一皿二千円を二皿ずつ。それからビール。他に食べたいのあるか? と聞かれたので、クッパを指さした。

「本当に食べれんのか? 手伝わねえぞ」

「だってお腹すいたんだもん」

 まあ結局食べ残すんだけど、別に久原さんは怒らないから。

 お肉は、基本的にあたしが焼く。久原さんは高い肉を頼むくせに、焼き加減はテキトーだから。霜降りの和牛は口の中に入れるととろけていくようで、あたしが普通のJKだったら永遠に出会わない味だった。

 個室には、L字型にソファーが設置されている。焼肉を食べる合間に、久原さんに顔を寄せて太ももをつつくと、三回に一回はキスしてくれる。向かい合うような座席だったら、こうはいかない。初めて来た店だけど、久原さんはいい感じの店を選んでくれたなあ。お肉も美味しいし。

 満腹になったら、休憩するためにホテルに行く。久原さんはあんまり怒ったりしないから穏やかな人に見えるけれど、それはただそう見えるだけだ。彼はあたしを痛めつけるのがすごく上手い。あたしは毎度、ベッドの上で理不尽な暴力にさらされ、辱められる。この時間はいつ終わるのか、とそれだけを考えるようになる。けれどそれでもまた性懲りもなく久原さんに会いに来てしまうのだから不思議だ。

 事が終わると久原さんは優しい。頭をなでて、お疲れ、シャワー浴びてこい、と促してくれる。シャワールームから戻ったら久原さんはもう服を着ていて、財布から紙幣を数枚差し出してくる。骨ばった男の手。さっきまであたしの首を絞めていた、その手からお金を受け取ったら、それでおしまい。なんだか寂しくなって、久原さんの背中に抱きついた。

「ねーさー、クハラさん」

「なんだ? さっさと帰る支度しろ」

「クハラさん、なんでさっきあたしの首、絞めなかったの?」

「ヤッただろ。蒸し返すなよ、うぜえな」

「絞めたけどさあ、殺さなかったじゃん。あたしのこと殺したくないの?」

「殺さねえよ」

「なんで? 女子高生だよ。こんなに若くて可愛いのに」

「自分で言うか?」

「クハラさんだってあたしの顔好きでしょ?」

「…………」

「こんな子が殺していいよなんて言ってくれること、早々ないよ? 殺しておいたら?」

 久原さんが振り向こうとする気配を感じたので、あたしは大人しく、抱きついていた腕をほどいた。

「お前はさあ……」

 久原さんの手があたしの首にのびる。反射的に目を閉じた。

「あだっ」

 直後、頭に痛みがはしった。目を開けると、指をはじいた形で久原さんの手が固まっている。

「デコピンするなんてひどいよ」

「お前が変な冗談言うからだろ」

「冗談じゃないし!」

「はいはい」

 久原さんはさっさと自分の荷物を持って部屋を出ようとする。あたしは慌てて鞄を拾い上げ、そのあとを追いかけた。

 久原さんはあたしのことを殺してくれない。ひどいことをしたりするけど、それはただそういう行為が好きだからであって、あたしを愛しているからではない。

 まあ別にあたしだって、久原さんのことを愛してるわけじゃないし。殺されてもいいかなあってだけ。

 

(後略)

 

 

2.みどりのきみ <ギムナジウムで暮らす少女たちのはなし>

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(前略)

 

 絵梨はあたしが思っていた数倍裕福で歴史のある家柄の出だった。そこの末娘らしく、丁寧に育てられた彼女は気立てが良く、誰にでも親切だ。この高校では珍しい粗雑な言動をする私も受け入れてくれた。彼女がいなかったら、あたしは意味不明な学校のルール、たとえば食堂で座っていいエリアは学年ごとに決まっているとかそういうの、に翻弄されていたと思う。

 丘の上にある学校から街に出るには、バスで一時間かかるので、あまり外出する生徒は多くないという。最初の土日で、あたしは街に出てバンダナを買ってきた。緑色に染められて、白い糸で花の刺繍が入っている。あたしはそれを絵梨にあげた。一週間で絵梨には何度もお世話になったし、これからもお世話になるだろうから。まあ素敵なハンカチーフ、と絵梨は喜んで、それを毎日髪に巻くようになった。黒髪に緑のバンダナ、もといハンカチーフは映えていたので、あたしも嬉しかった。それが彼女の呼び名に繋がるのは予想外だったけれども。

 夏頃になって、絵梨が一年生から翠のお姉さまと呼ばれているのに気づいた。部活にも入っていない彼女が一年生と交流があるのは驚きだったので、事情を聞いてみると、女子校特有の事情というものがわかった。つまり、家柄よかったり、美人だったりすると、人の話題に上りやすくなり、上級生のお茶会に呼ばれたり、下級生からお姉さまと呼ばれて慕われたりするのだと。私のお家は長く続いているから、と彼女は少し頬を染めて言ったけれど、それだけじゃないのはあたしの目からもわかった。絵梨はすごく美人だ。女の子が本気で惚れてしまうくらいに。

 水泳部の後輩の一人に杉崎美結と言う子がいて、絵梨に好意があるようで、よく話を聞かれた。好きな本とか、昨日何を話したとか、他愛もないことを。自然、部活内で一番よく話すのは彼女になった。妹に選んでくださったらいいのに、と彼女はよく呟いた。実の家族になるという話ではなくて、学園内で特別に仲の良い上級生と下級生は、姉と妹のように付き合うらしい。明言されていないけれど、恋人になるようなものだ。今のところ、絵梨が誰か下級生ひとりと特別一緒にいるという様子は見たことがないので、妹はいないらしい。それを伝えると、わかっていますよ、と笑われた。それよりも、と美結は声をひそめた。

「それよりも、あの噂って本当なんですか?」

「噂って?」

「翠のお姉さまが一年生のときに、姉と呼んでらした方に、殺してほしいってお願いしたって」

「え?」

 寝耳に水だった。付き合っている人がいるなんて聞いたことがない。もう卒業した人なんだろうか? でも夜や休日に、誰かと親しく電話している様子もない。

 上手くいかなくって別れたってことだろうか。

「その人は、いま学園に?」

「ということは、先輩も聞いたことがないんですね。相手の方がどなたかまでは、私も聞いたことがないんです。ただ、そのお願いは上手くいかなくって、……って、それだけです。とても勿体ないですよね。私なら、絶対にお姉さまを優しく殺して差し上げるのに」

 うっとりした表情で美結はそう語る。彼女の脳裏ではいま、絵梨が殺されているんだろうか。学生のうちに人を殺したいなんて、こんなお嬢様学校にいるのにモラルのない子だな、と思う。でも噂が本当なら、絵梨だって同じだ。あの綺麗な絵梨がそんな情熱を秘めているなんて、あまり想像がつかない。本当のことだろうか。

 真偽に思いを馳せていたので、反応が送れた。それを暗黙の反論ととったのか、美結は笑った。

「もちろん、噂ですけれどね。でも、本当だったらとてもロマンがありますよね。……あら、香子先輩にも、殺したい殺されたいって女の子はいらっしゃいますよ。うふふ、先輩かっこういいんですもの」

「……それは、そんなに知りたくなかった情報かなあ」

「あら、残念。お伝えしておきますね」

 

(後略)

 

3.恋愛ではない <殺人を愛情表現と思わない少女のはなし>

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 中学生のときに、殺されかけたことがある。

 これは全然ロマンティックな話じゃない。怖くて、恐ろしくて、本当なら話すのだって耐えられない話だ。わたしは今でも思い出す。わたしを押さえつける男の身体、爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍、真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。これが恐怖にならないとしたら、何になるっていうんだろう?

 わたしは殺人が愛だなんて認めない。そんなことは絶対に有り得ない。そんなのは殺した側の独りよがりだ。

 でも誰も共感してくれないのはわかっている。うそー、すごーい、とわめきたてるか、中学生とかマセすぎじゃない? と皮肉っぽく笑うかのどちらかだろう。女子高生はリアルな性体験に飢えていて、きっと一週間ぐらいわたしの話題で持ち切りになる。そうして、一週間したらわたしの可哀相なお話はぽいっと捨てられるのだ。わたしの生々しい恐怖は、彼女たちにとってそれだけの価値しかない。

 

(中略)

 

 わたしが彼と出会ったのは市立の図書館だった。返却の手順がわからなくておろおろしている彼をわたしはカウンターへと連れて行った。ありがとう、妹に頼まれたんだけど、こういうところに来るのも初めてで、そうはにかむ彼はわたしより年上なのに可愛く見えてしまった。

 押し付けるようにして連絡先を渡した。非常識なことをしたと、そのときは反省で忙しかったけれど、いま振り返ると彼も女の子とそういう進展があるのは初めてに違いなく、わたしと同じぐらい慌てていたと思う。

 年の差のあるわたしたちだったが、交際は順調に進んだ。初めは手をつなぐのにも赤面していたが、次第に慣れていき、より性的なことにも挑戦するようになった。わたしの手首を初めて切ったのは彼で、それ以降誰も刃を肌には当てていない。焼けつくような熱量が宿り、痛みに耐えた自分を誇らしく思った覚えがある。手首から垂れる血をなめとる彼の舌が淫靡で、わたしの頭はぐるぐると回った。

 すべて過去の話だ。

 君を殺したい。だめ? 彼はベッドでそう甘く囁いた。おそらく友達同士とそういう話題で盛り上がり、欲求が高まったのだろう。わたしは尻込みしたけれど、彼に説得されて最終的には頷いた。

 そこからは怒涛のように事は進んだ。

 最初は夢のように甘かった。わたしの首筋を撫でる彼の指、官能的な囁き。しかし酸素が届かなくなり苦痛という現実がわたしの身体に押し寄せた。わたしは暴れた。それに伴って男の身体がわたしを押さえつける。痛い、無理だ、もうやめよう、そんな言葉が頭の中で飛び交うけれど、息が吸えなくて何も音にはならない。力が強まり首に走る激痛。爆音となって頭の中に鳴り響くわたしの脈拍。真っ赤に染まった視界はチカチカと点滅する。

 わたしを傷つけるのは誰だ?

 わたしを殺そうとするのは。

 

 殺されるぐらいならば殺してしまえ。

 

 気づけばわたしは解放されていた。彼はわたしの死に物狂いの抵抗に呆然としていた。

「痛かった……?」

 馬鹿げた質問だった。痛いに決まっている。ふざけるな! わたしはそう叫んだつもりだった。しかし口からもれたのは、やめて、という震えた悲痛な声だった。それはどんな罵声よりも彼を傷つけたようだった。

 

(後略)

 

【出店情報】

bunfree.net

 

再掲ですが、当日は、

 出店名:菓子屋の軒下

 ブース:キ-31

でお待ちしています。

上記の文学フリマ東京公式サイトを参照いただき、感染症対策をとってご来場ください。

 

boothにて事後通販も予定しておりますので、当日の会場参加が難しい方はご利用ください。

※もし仮に完売した場合は、通販はありません。

また、第32回文学フリマ東京が中止になった場合は、通販のみに変更します。

 

取り置きのご連絡や、ご不明点は、Twitter:@amaai_jackまでお願いします。

無題(2021/01/23)

 蝉の声が耳につく。そうだ、窓があいているのだ。閉めたいけれど、ベッドから起き上がるのは面倒くさい。

 ベッドに横になりながら、キャンバスに向かうしぃちゃんの背中をぼんやりと眺める。この時間が一番好きだった。二番目に好きなのは、しぃちゃんとキスをしているとき。三番目は、しぃちゃんの絵のモデルをしているとき。四番目は――。

 いや、やめよう。

 つまり、しぃちゃんといないときは生きている意味なんてないっていうことだ。もっとも目的もなく大学に入って、流されるまま講義を受けているような人間なんて似たようなものだと思う。それが恋に浮かれれば、こうなるだろう。とうぜん。

「――し、」

 い、ちゃん、と続けようとして、やめた。きっとしぃちゃんは振り向かない。集中しているときは私の声なんて届かないし、届いたとしても無視するだろう。しぃちゃんにとって私なんてそんなものだ。私はしぃちゃんのことが好きだけれど、しぃちゃんはとって私は、せいぜい無料でモデルになってくれる便利な人、ぐらいの認識だろう。

 彼女に中庭で初めて会ったときのことを思い出す。あの、と声をかけられて、びっくりした。私の理想的な造形の顔が目の前にあったからだ。グレージュの髪はゆるく巻かれていて、風になびいていた。大きな目が、パチリと瞬く。睫毛が長い。

 後から、綺麗なカールと思ったのはただの天パだとわかるのだけれど。

『え、……っと、なんですか?』

『絵のモデル、してほしいんですけど』

『モデル?』

『はい。わたし、』

 彼女は手にもったスケッチブックを広げた。

『洋画を専攻してて。あ、と、あっちの建物に芸術系の学科があるんですけど』

『知ってます』

 スケッチブックの中には、紙いっぱいにスケッチが描かれていた。ランダムに広げてそうだったのだから、きっとどのページも同じなんだろう。パッと見て、レベルの高さがわかった。すごく、上手だ。

『よく、知ってます』

『あ、そうなんですか。えっと、それで、どうですか?モデル』

『モデルをしたら、私に何かいいことがあるんですか?』

『あー、そうですね。もちろん報酬もありますよ。お金とか、あとわたしにできることなら』

『付き合ってくれますか?』

 彼女はパチリと、瞬きをした。

『交際、してほしいんですけど。恋人になってほしいんです』

『あ、はい。いいですよ』

 彼女は顔色ひとつ変えずに言った。頭がカッとなった。

『いいんですか?私、女ですよ。本当に付き合えるんですか?』

『できると思います』

『キスできるんですか?』

『えっと、お金は要らないんですよね?大丈夫ですよ、キスぐらい』

 もともとレズビアンバイセクシャルなんだろうか。それにしたって、お金の代わりに体を売るような真似をするなんて、よく悩まずに即答できるものだ。それほどの覚悟がないと、絵を描くことはできないんだろうか。

『じゃあセックスも?』

『はい』

 彼女の顔がぐっと近くなった。一歩踏み出したのだ、と気づくと同時に、唇が触れ合った。

 二の腕を彼女の手がつかんでいる。瞳しか見えない距離で、もう一度言った。

『できますよ、それぐらい』

 そうして、私は彼女の恋人になり、モデルになった。

 ベッドに横になったままで、しぃちゃんの背中を見る。華奢な身体は布ひとつまとっていない。彼女は抱き合ったあと、服も着ずに絵を描くのが好きだった。どうしてかは知らない。シャワーぐらい浴びたら、とアドバイスをするけれど、彼女が私の言う通りにしたことはない。

 日の光を浴びたことがないような背中。傷ひとつないその肌に爪を立てて引っ掻いてしまいたい欲望にたまにかられる。ひぃちゃんの顔も、身体も、声も、すべてが愛おしいのに、一筋だけでいいから傷をつけたい。

「あいちゃん」

 いつの間にか蝉の鳴き声は止んでいた。静かな夜の部屋に、ひぃちゃんの声だけが響く。

「わたし、あいちゃんが思っているよりも、あいちゃんのこと好きだよ」

 私は何も答えない。

「あいちゃんも、わたしと同じぐらい絵が描けたらよかったのにね」

 ああ、本当に、この女のことが世界でいちばん嫌いだ。

 

筑大深夜の真剣SS60分一本勝負(2021/01/23)のために書きました。

お題はかく:「描く」「搔く」(引っ掻く)です。

嗚呼素晴らしきかなメリー・クリスマス

 クリスマスが毎年楽しみだった。一年でいちばん好きな日だ。二番目は誕生日。なんで誕生日が二番目かっていうと、誕生日は僕と、僕の家族や友人だけが楽しいけど、クリスマスは街中のみんなが楽しい日だから。だからいちばんだ。

 クリスマスって、すごく素敵なイベントだと思う。十二月に入ると、イルミネーションがどこからともなく現れて、街中が輝きだす。街灯についたスピーカーはクリスマス・キャロルを流して、それを聴くと自然と心が弾んでしまう。もうすぐクリスマスだ!って。

 実のところ、僕は一回もサンタクロースに会ったことがない。サンタはいないよって友達は言う。大学生にもなって未だに信じてるのかって笑われてしまった。小学生のころはみんな真面目に話を聞いてくれたのに。僕はずっと信じてる。というか、いるって知ってるんだ。だって毎年、サンタクロースは僕が欲しいものをくれるんだから。

 十歳のときは、最新のゲームソフト。

 十五歳のときは、ずっと欲しかった革のジャケット。

 二十歳の――今年は、きみを。

 

 きみと離れ離れになってしまったとき、とても悲しかった。

 きみは僕の初めてできた恋人だった。きみといるだけで、こんなにも世界が輝くのかと驚きの連続だった。もちろん、人を好きなったのは初めてじゃない。家族も、たくさんの友人も、みんな僕の大切な人だ。でも、誰か一人だけを幸せにしたいと思ったのは初めてだった。

 一緒にいろんなところに行ったよね。覚えてる? 真冬に北海道に行ったときのこと。テレビで札幌の蟹の特集が組まれていて、どうしても食べたくなったんだ。きみは冬に北海道なんて行くものじゃないと行ったけれど、最後は着いてきてくれたね。蟹は美味しかったし、真冬の北海道は想像よりも寒くって、僕はすごく楽しかった。あんなに雪が積もっているのをみるのは初めてだったから、思わず飛び込んでしまったんだよね。貴方といると、世の中に悪いことなんて何ひとつないみたいに思えちゃうわ、ってきみは声をあげて笑った。その笑顔は、天使みたいに綺麗だったんだ。

 だから、そんなきみともう二度と会えないとわかったとき――僕は目の前が真っ暗になった。君がいない世界でどうやって生きていたのか、もう思い出せなかった。無理だとわかっていても、もう一度きみに会えたら。せめて、温かい言葉で見送ってあげたい。どうして最後に会ったとき、あんな些細なことで喧嘩してしまったんだろう。

 もう一度、きみの笑顔がみたい。この腕できみを抱きしめたい。

 きみに、会いたい。

 そう懇願するように日々を過ごしていたところに、きみが帰ってきてくれたのは、まさしく奇跡だと思った。十二月の二十四日。バイトから戻ってきた僕のアパートのドアの前で、きみは寒そうに立ち尽くしていた。きみではない、とは疑わなかった。だって明日はクリスマスだ。サンタクロースからのプレゼントだ、と思った。

 たしかに、今のきみの足は透き通っていて綺麗なブーツは履けないし、抱きしめようにもその体をすり抜けてしまうけれど、そんなことは関係ない。再会してからのきみの言葉は難解で、聞き取れないことが多い。一度離れ離れになってしまったときに、新しい言語を覚えてきたんだよね。でも偶に日本語で喋ってくれるから、そのときのきみの声音に僕はうっとりとしてしまうんだ。相変わらず、鈴が転がるような可愛らしい響きを聴かせてくれる。どんな姿であろうとも、きみは間違いなく僕の恋人だ。

 

「じゃーん。クリスマスケーキ、買っちゃった。きみが食べられないってわかってたけど……でも、可愛いでしょ? 僕が食べるから、無駄にはならないよ」

 箱から出した2ピースのケーキをきみの前に並べる。

『銀h慮』

 きみが何かを言って、少し寂しそうに笑った。せっかく買ってきたのに。食べられないのはやっぱり嫌なんだろうか? でもせっかくのクリスマスだから、形だけでも整えて盛り上がりたかったんだ。

『貴方が、』

 日本語だ。僕はぱっと顔をあげた。きみの言葉は一言一句聞き逃したくない。

『世界の見え方を変えてしてくれるんだって思ってたときもあった。違うのね。貴方はただ、悪いことを見ないようにしてるだけなのよ』

「どういうこと?」

 きみは風呂場を指さす。実は最近掃除をさぼっていて、近所の大衆浴場に通っている。ちゃんと掃除をしろ、ということだろうか? たしかに、ちょっと匂いがきつくなってきたような気もする。

「掃除? でもめんどうなんだよなあ。今日はクリスマスなんだからいいでしょ。また今度やるよ」

『今度っていつ?』

「うーんと……」

『いま』

「え?」

『いま、やってきてよ。いますぐに、あの風呂場のドアを開けて、中の、わたしの、ぎたいdごwみtghけてmfdffぢょわひs度wp簿とぢgky底をさっさと御代rンsd氏よ』

 あ、また聞き取れなくなってしまった。きみの口が動いているから、何かを喋っているのはわかるけれど、意味をなさない音の並びにしか聞こえなくて、何を伝えたいのかはわからない。すごく残念だ。きみの言葉は一言一句聞き逃したくないのに。

 ええと、それで。

 何の話だったっけ。

「あ、そうだ、クリスマスケーキ。しょうがないから、僕が二個食べちゃうね。違うよ、決して二個食べたかったとかじゃなくてさ、あはは」

『えshすんs』

 きみはまた寂しそうに笑う。きみの輝くような笑顔が好きだったけれど、ずっと見ていない。でも、無理して笑う必要なんてない。きみが笑わない分、ぼくが笑うから。いつかきみが自然と、声をあげて笑ってくれるのを待ってる。

 フォークで掬い取った一口は、一口というには大きすぎたけど、思い切って頬張った。去年、一緒に選んだケーキ屋さんの味はそのままだ。外はホワイト・クリスマスで、ケーキは美味しいし、こうしてまたきみと一緒にいられる。

 やっぱりクリスマスって一年でいちばん楽しい日だ。

 

後書き

筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。既視感がある?2回目なので…。上記の小説は12/15のために書き下ろしました。

adventar.org

・前回が明るい話だったので、暗い話を書こうとしたのですが、楽しい話になってしまいました。不思議だなぁ。

 

新生

君だけが

君の掠れた低い声だけが

私を連れ去っていく

 

 * * * * *

 

 高校生のころはよかった。スクリーンに映し出されたスライドを眺めながら、そう思う。やるべきことがわかりやすかった。テストで良い点をとればいい。それだけだ。そこに私の意志が介入する余地はない。(しいていえば文系か理系か、という選択肢を突き付けられたことはあったけれど、就職に有利だからという理由で親が理系を勧めたのでそうした)進路希望調査の大学名は、自分の偏差値に見合ったところで、地元から離れたところを三つ記入した。地元から離れようとしたのは、必要以上に私を気にかける親と会話するのに、いい加減疲れてきたからだった。

 親が私を心配するのはわからなくもない。私はあまり自己主張をしないからだ。しかしそれも私からしてみれば仕方のない話で、おそらく、生まれついて私には感情というものがないのではないかと思う。もちろん、美味しいものを食べれば美味しいと感じるし、不快な音を聞けば耳を塞ぎたくなる。しかし、自主性を求められると、とたんに返答に困ってしまう。

 たとえば、夕食が何がいいかと聞かれたとき。私は寿司が好きだし、ハンバーグも好きだし、親子丼も好きだ。しかし、寿司が出ようがハンバーグが出ようが、あるいはまったく別の八宝菜が出てこようが、私の気分は特段変わらない。要するに、何が食卓に出てこようが腹が満たされればいいのだ。けれどそう告げると、困ると言われる。普段の食事ならまだいいけれど、誕生日となれば、躍起になって私の要望を探ってくる。適当に答えたら今度は、食べたいものが出てきた喜びをアピールしなければならない。実際には嬉しくもなんともないにも関わらず。そういう日々にはもううんざりだった。

 それで地元を出て独り暮らしを始めた。想像以上に快適な日々だった。誰も私の機嫌を気にかける者はいない。無表情で食事をしていても文句は言われない。

 しかし授業は別だった。高校とは違って、自分で決めなければいけないことばかりだったのだ。授業を受ける前からそうで、必修科目とは別に選択科目、自由科目まであって、授業の取り方は無限だった。本来であれば、自分が進みたい進路や、興味がある分野をもとに取り方を決めればいい。しかし、私には自分の希望など何もないのだ。春学期半ばまでの予定表はオリエンテーションで教えてもらった先輩のアドバイス通りに組みつつ、さてこれからはどうしようと悩んでいたところに話しかけてきたのが、岩瀬柳だった。

 食堂でいつも通りカレーを食べていると、隣に二人連れの男が座った。昼時の食堂は混むので、隣や向かいに他人が座るのはよくあることだ。(慣れてくると昼休みではなく二限か三限のタイミングで食事をとるというテクニックを使うのだが、一年生の私はまだ知らなかった)しかし、隣に座った他人が話しかけてきたのは初めてだった。

「なあ、白川さんっていつもカレー食ってるよな?」

「はあ……」

 私はうろんげな視線を彼に向けた。知らない人だ。いや、知っているかもしれない――つまり、同級生のような気もする。しかし話したことはないはずだ。彼の向かいに座った男性も、目を丸くしていた。

「たしかに、そうですけど……なんで私のこと知ってるんですか? 私、話したことありましたっけ?」

「まあ、同期の紅一点は覚えるっしょ」

 やはり同級生だったらしい。たしかに同じ学年で女子は私一人だ。私の学類は毎年女性の人数が極端に少ないらしい。理系の中でも生物学類なんかは女子が多いのにな、と先輩は嘆いていた。

「それで食堂にいるから観察してたらさ、いつもカレー食ってるじゃん。俺さ、白川さんがカレー以外食ってるの見たらラッキーデーって勝手に決めてたんだけど、そんな日なかったわ。カレー好きなの?」

「はあ……まあ、そんな感じです」

 実際のことをいうと、カレーは食堂のグランドメニューの中でも比較的安く、かつ野菜がとれるからだった。定食でも生野菜がついてくるので栄養はとれるけれど、日替わりなので毎日選び直さなければいけない。一方でカレーは必ず毎日ある。悩まなくていい、というのは私にとって重要だ。

 しかしそんなことを初対面の人間に説明する義理はないので、好きだから、という理由で流すことにした。

「女子一人ってさあ、なんか大変じゃない?」

「大変、じゃないですけど……」

「代返とかさ。あと、休講の情報なんか? 俺なんかはさ、早々にユーチと友達になれたから、情報共有できたけど――」

 ユーチ、というところで斜め前の男を見ると、軽く頷き返された。つまり彼がユーチくんらしい。

 私は頭の中で天秤にかけた。友人ができる煩わしさと、すべて友人に任せてついていけばいいという気楽さを。そうして口を開いた。

「確かに、授業の組み方とかはちょっと悩んでるかな」

「マジ? やっぱそうだと思ったんだよな。よかったら連絡先交換しようぜ。そうだ、ユーチ含めてグループチャットたてるのはどう?」

「何のグループ?」

 ようやく、ユーチくんが喋った。私を疎んでいるわけではないようだ、と他人事のように分析する。おそらく、私に似たタイプ。友人関係が増えるのは好ましくもあり、面倒でもあるので、積極的にはなれない。しかし友人がグイグイ引っ張るので否応なく着いていかざるをえない。

「カレーグループでよくね? 俺もカレー好きだし。あ、そうだ、俺、岩瀬柳。ヤナってみんな呼ぶ。んで、こっちが――」

「田尻雄一。よろしく、お願いします」

「白川昴です。よろしく」

 岩瀬柳と友人になったのは、想像以上の収穫だった。彼は別のグループチャットで得た情報をすべて横流ししてくれたので、私は自分で掲示板を見に行ったり、先輩に過去問をお願いする必要がなくなった。履修の計画も組んでいたので、それを真似ればよかった。彼についていけば、私の大学生活は万事、とまでは言わなくても、ほどほどには上手くいった。その一方で、私の予想とは裏腹に、彼は決してお節介な人間ではなかった。確かに親切で、よく気にかけてくれる。それから、いろんなことに目をやるので、ほかの人よりも気づきが多かった。私がカレーばかり食べているのに気づいたように。しかし本当のところ、彼の頭の中は何か重要なことで占められているようだった。だから、何かに気づいたとして、興味を持っても、表面的な答えを得られたら満足してしまうのだ。

 彼の頭の中を占めている何か、というのを私は一度尋ねたことがあった。同級生の何人かで宅飲みをしていた、その終わりかけのことだった。彼は少し恥ずかしそうに、音楽だよ、と答えた。

「音楽?」

 まだ寝ぼけていない数人が、興味を持ってこちらの会話に加わってきた。

「あー、そう……バンド。まあ、プロになるわけじゃないし? サークル活動だけだけど。でも、大学生の間だけって決めてるから……そしたらやっぱ、本気でやりたいじゃん?」

「マジか、柳って熱い男じゃん。ライブとかあんの?」

「あるよー、来月。よかったら来てよ」

 行く、と私は頷いた。私の日常は講義と課題とバイトのみで構成されており、ライブの日が暇である可能性は高かった。

 岩瀬柳が面倒じゃなかったのに対し、もう一人の、ユーチこと田尻雄一は非常に面倒な男だった。なんと、彼は私に好意を持ってしまったのだ。なんとも不思議なことである。こんな感情を表さない人間にどうして恋愛感情が抱けるんだろう。しかしまあ、彼は男子校の出身で、今まであまり異性と接してこなかったと聞くから、女性を見る目が養われていないのかもしれない。

 彼は積極的にアプローチしてきた。頻繁にメッセージを送ってきたり、デートに誘ってきたりといったことだ。メッセージについては、苦手だから、あまり返せないかもしれない、返してもスタンプばかりかもしれない、とあらかじめ言っておいた。盛り上げるような会話というものが私は苦手なのだ。デートについては、明にデートと言われず、カラオケや食事に誘われただけなので、うまく断れず毎度行くことになった。別に行きたいわけではないけれど、行きたくないわけでもなく、田尻雄一に好意を持っているわけではないけれど、彼の好意を拒否する言い訳を考えるのは面倒で、気づいたら流されているのだった。そもそも自分は彼と付き合いたくないのか、それすらはっきりと断言できないのだ。私はそういう人間だった。

 田尻雄一と一緒に岩瀬柳のライブを観に行くことになったのも、そういう流れだった。

『ヤナのライブ、来週末だよね』

『一緒に行かない?』

 私と田尻雄一が一緒に現れたら、岩瀬柳は多少邪推するのではないかと思う。しかし、一緒には行きたくないと田尻雄一の誘いを断るのも不自然だった。まあいいか、と私は肯定的なスタンプを返した。なるようになる、だ。

 当日、私と田尻雄一は駅で待ち合わせて一緒に会場に向かった。会場は混雑していて、私と田尻雄一はドリンクのカップを片手に所在なさげに佇んでいた。ネットで調べると、今日はサークルに所属している全バンドが出演するらしく、それらが皆友人を呼んでいるので、こうしてすし詰めになっているらしい。

 定刻になり、サークルのリーダーのお決まりのような挨拶から、一つ目、二つ目、とバンドが登場しては去っていく。私はあくびが出そうなのをこらえていた。どのバンドも、上手いと思う。素人が聴いているからかもしれないけれど、素直にそう思う。けれど、上手い、ただそれだけだ。それで何か私の心が動くわけではない。

「柳のバンドって何番目だっけ」

 囁くようにして田尻雄一に尋ねる。いい加減立ちっぱなしで足が疲れてきた。

「え、っと、六番目――あ、次じゃないかな」

 そう言うとともに、舞台上に岩瀬柳が姿を表す。ああ、私と田尻雄一を見てどう思うんだろうなあ、勘違いされて応援されたら面倒だなあ、と思っていたけれど、彼は真剣な表情でマイクの位置を調整していて、こちらを見ることはなかった。ここに来て初めて私は、彼がギターボーカルというバンドの花形の立ち位置にいることを知った。

 どのバンドも紹介なしで一曲目が始まる。岩瀬柳が目線でバンドメンバーに合図して、ドラマーがスティックを振り上げた。あ、始まる、と悠長に私は構えていた。

 一音。

「――――」

 岩瀬柳、の、いつもと違う、常よりも低い声が、私の鼓膜を揺らす。たったそれだけのことで、カッと体が熱くなる。スピーカーから流れ出る振動が直に心臓に届いているみたいだ。

 これはなんだ?

 私はいまなにを聴いている?

 私はいまどうなっている?

 これは、なんなんだ?

 すこし掠れたその声が歌い上げているのが何なのか、私にはわからない。歌詞を聞き取る余裕なんてない。でも、きっとそう、恋の歌だ。歌声と、彼の切ない表情を見れば予想がつく。

 ハア、と吐息をもらす。ずっと息を止めてしまっていた。呼吸を再開したのに、けれど苦しい。正しく息をすって、はくことがこんなに難しかっただろうか。自分の体が自分のものでないような感覚に陥る。

 心臓がバクバクと音を立てているような気がする。燃えるように体が熱い。いつまでもこの歌を聴いていたい。いや、もう終わってほしい。恐ろしい。この歌が永遠に続かないということが、こんなにも悲しくて恐ろしい。それならばいっそ、もう終わらせてほしい。

「――――」

 シャウト。思わず悲鳴をあげそうになった。彼の声は、呼吸を苦しくさせる。どうしてだろう? 私はどうしていま、叫びだしたくなっているんだろう。わあ、と大声をあげてしまいたい。何を伝えるためでもない。ただ、叫んでしまいたい。そうしたらこの身を支配している何かから、楽になれるような気がする。

 私の目には、もう岩瀬柳以外の何も映っていなかった。彼は、ただひたすらに歌っている。私なんて目に入らないぐらい真剣に。

「――――。……ありがとうございました」

 終わった。歌声の余韻を、ギィン、というギターの音色が断ち切る。彼が頭を下げると、拍手が起きる。彼の隣のギターの人が、バンドの紹介を始めた。岩瀬柳は、後ろに置いてある水を飲んでいる。

 軽薄なおしゃべりは、私の耳には入ってこない。

 これはなんだろう。どうして私はただの音の連なりに、体が痺れるほどの衝撃を感じたんだろう。こんなことは生まれて初めてだ。ただただ不思議だった。何も分からない。でも。

 彼が、彼の歌が欲しい。

 そう思った。

「白川さん」

 名前を呼ばれて、そろそろと隣をみる。田尻雄一が、眉をひそめて私を見ていた。

「なんで、……泣いてるの?」

「泣いている? わたしが?」

 頬に手をあてると、たしかに濡れていた。自分の目がどうして涙をこぼしているのか、私にもわからなかった。






あとがき

 

筑波大学文芸部関係者による Advent Calendar 2020にOGとして参加させていただきました。上記の作品は、12/7のために書き下ろされました。主催の神乃さん、ありがとうございました。他の方々の作品も素敵なものばかりなので、未読な方はぜひ読んでみてください。

adventar.org

・短編+短歌、という形に図らずもなりました。私の好きな本の1つ、加藤千恵さんの「真夜中の果物」はこの形で構成されている短編集です。短歌という31文字の世界を小説が広げてくれる、また小説の広い世界をぎゅっと短歌に閉じ込めている、この相互の関係性が素敵な作品です。興味があればぜひ。

・バンドものはもともと好きです。書いたのは初めてですが。元ネタとなった短歌は、2017年に詠んでいました。

・少し早いですが、メリークリスマス。